新宿区の津の守に新宿歴史博物館がある。最寄りの駅は都営新宿線曙橋駅で歩いて数分で着く。そこの学芸員に明治の初めに津の守に住んでいたアメリカ人が缶詰の作り方を日本人に教えたのは誰なのか聞いた。(出典・明治事物起源・石井研堂)しかし記録がなく、結局都立公文書館へ行くように言われた。
東京都公文書館は、東京府・東京市時代からの東京都の公文書や行政刊行物を系統的に収集・保存し、閲覧に供するとともに、東京市史稿をはじめとする明治期以来の修史事業を継続している。今でも新しい東京市史稿が継続して出版されている。
1968年以後に港区海岸で業務を行っていて、道路を挟んで反対のところに都立産業貿易会館浜松町館があって、漬物の展示会の開催の時に公文書館を見ていた記憶がある。ここは人生の間に訪問することはない施設と人の出入りを見つつ思っていた。10年くらい前に芝浦地区の再開発で移転した。今は再開発が終わって『東京ポートシティ竹芝オフィス』となり、ソフトバンクが本社として使用している。都の公文書館は 2012年(平成24年)に世田谷区玉川の旧東京都立玉川高等学校校舎に移転し、そこの2階で雇い外国人を調べたが、都の職員が缶詰の起源を示して、ライマではないかと言ってきた。
図説明治事物起源事典 湯本 豪一著 東京 柏書房
公文書館でライマを検索すると2件出てきて、夕張炭鉱を発見した地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンだった。日本における缶詰の始まりは二つの系統があって一つは長崎の松田雅典で長崎市と日本缶詰協会の本で認定されている。
ライマと雇い外国人で検索すると『ライマンの法則』出てくる。「すでに濁音を含む語では連濁が起こらない」という一般化で,明治時代に日本にアメリカから日本に来た地質学者によって発見された日本語の法則です。北海道の夕張炭鉱を発見した人でも知られる。さらにベンジャミン・スミス・ライマンを調べると、石井研堂の記述に誤りがあって、明治3年に来日したのではなくもっと後のようだった(1973年1月)このような記述の誤りが石井の缶詰の始まりには多くあって、さらに蛇足と言える文章も多く、缶詰協会としては通説と出来ず、コラム扱いとなっている。
上記の理由で歴史学者は石井の文章を検証していないと感じて、調べてゆくと二次的な意図が隠されていると感じるようになってきた。
北海道を開拓したアメリカ人 藤田文子著 新潮選書1993年
この本の三章にライマンの日本の業績が記述されている。著者はさりげなく書いてあるが、ライマンは芝増上寺にあった開拓使仮学校の校則に不信感を抱いた。仮学校の生徒は授業料を免除され生活費を支給されるが、卒業後数年間は開拓使で働かねばならなかった。さらにライマンは仮学校に併設されていた女学校の生徒に一目惚れし、結婚の申し込みした所、日本人の上司はその女生徒に断らせ他の女生徒を紹介したという。このことの詳細はお雇い外国人の小説を書いている森本貞子著『秋霖譜―森有礼とその妻』に詳細が書かれていている。
ライマンの結婚申し込みを断った女性は旧幕臣広瀬家の長女で常である。広瀬家では慌てて後の文部大臣となる森有礼に嫁がせた。二人の結婚は新聞報道され立会人は福沢諭吉だった。のちに夫婦の間に問題が生じ、離婚したのだが森本貞子さんの小説では今世間に伝わる常の不倫でなく、広瀬家が女性だけだったので養子を迎えたところ、自由民権運動静岡事件の関係者であったため、密かに離婚させられた。
広瀬重雄(1859年生、旧姓藪)は幕臣の藪七郎左衛門の子として生まれ、静岡の小学校教諭を経て東京に遊学、自由民権運動に触れ、1879年に静岡県士族・広瀬秀雄の養子となって家督を継ぎ、事件当時は地元紙の記者の傍ら愛知・岐阜県下で政治演説会を開いていた。当時、養家広瀬家の娘たちは森有礼、磯野計の妻であったが、静岡事件後、姉の常は密かに離婚させられ、妹の福は出産後に急死した。 世間に離婚の理由をごまかすため、青い目の子を産んだという噂を流し、不倫ということで今に伝わる。政府幹部夫人が過激な自由民権運動家が身内にいると許されなかった。同様に磯野計の妻も悩んでいたと思われる。
常の写真は全て消え、面影は妹の写真しか残っていない。妹の広瀬福は日本郵船が発足した時、船舶用の食品納入業者の明治屋創業者磯野計に嫁いだ。
日本郵船の積載物に明治屋の商品が多く、第一次大戦末期にでインド洋で遭難した常陸丸には明治屋の練乳と酒悦の福神漬木箱が発見されたことで知られている。
森本貞子の小説は読んでいる途中でこれは本当の話か疑問に思ったが藤田文子著の本で文献も残っていてどうやら事実のようだ。
福神漬缶詰の逸話は良く北海道が出てくるがこんな歴史が隠れているとは思っていなかった。日本缶詰協会の缶詰の始まりで缶詰の量産工場は北海道開拓使のようだ。明治14年の政変の原因になった北海道開拓の関係の払い下げ問題は政府の意向と現実があっていないと感じる。多くの失業士族救済を考える政府役人と効率と業績を残す雇外国人との意識の差があった。多くの雇外国人は今でいうとアフリカ等で活躍する欧米人に似ている。業績と名声を上げ本国に戻る。