戦後の小学校の思い出で、教室内に石炭スト-ブがあって、児童がやけどしないように、金網で囲いがあった。まだ給食のない時代で家から持ってきた弁当を昼の前に金網にぶら下げて温めていた記憶が残る。高学年になった時は給食が始まっていて記憶がない。あるのはクジラのタツタ揚げとコッペパンの記憶がある。
卒業まじかに木造の教室が新築となった。その校舎が間も無く15年ほどの期間をかけて建て替えられるという。区で越境入学のできない混雑小学校で昔は工場労働者の子供が通っていて、午後になればグロ-ブが一つと、バットとボールで三角べ-スで遊んでいた。大手企業のグランドは今の様に警備が厳しくなく、午後のグランドで遊んでいた。今はグランドにはあるが当時は水飲み場もなく、仕方がなくその大手企業の守衛室のところで水分補給していた。
石炭は燃えた後に石炭カスがあって、どう処分したか記憶がない。多分学校の用務員さんが火の始末とカスを掃除していたのだろう。
石炭が日本では時代遅れだが、近代化にはなくてはならないものだった。和歌山県新宮市は明治期に東京と大阪を結ぶ海上航路の港があった。今は辺鄙なところで大阪に行くのも名古屋に行くのも大変だった。その新宮から文化人が生まれていて、不思議だなと思っていたら、新宮の奥地に小さな石炭鉱山があったようだ。
旧九重(くじゅうむら・現新宮市熊野川町)宮井を中心とする通称熊野炭田は、明治初期新宮藩が銅鉱脈を発見したのをきっかけに、土佐の九十九(つくも)商会や、三菱の岩崎弥太郎などが関与、明治20年前後には大きく4つのグループの鉱山が出来ていた。その一つが松沢炭鉱と呼ばれ、記録に残る。明治の終わりの大逆事件で死刑となった大石誠之助は新宮の医師で、鶯亭金升の雑俳句の会の俳号を持っていた。この雑俳句の会には新劇の小山内薫と
歌舞伎役者市川左団次の出会いの場にもなった。さらに大逆事件の幸徳秋水もこの会の俳号を持っていた。
新宮には日本郵船のアメリカ行き航路があって、アメリカへ多くの和歌山県人が行ったのは、情報の入手が正確で速かったと思われる。駿河台の文化学院を作った西村伊作も新宮の出身で、大石とは親戚となる。すべては新宮奥地の石炭鉱山から始まってるとは思わないだろう。さらにその文化基盤の上に戦後の作家が生まれている。
中上 健次(なかがみ けんじ、1946年〈昭和21年〉8月2日 - 1992年〈平成4年〉8月12日)新宮高校出身
和歌山県みなべ町で毎年2月上旬に南高梅を見つけた人の顕彰の会があって、そこには県知事とか二階さんが来賓として来ていて、記憶では自民党が4年ほど野党の時代で県のテレビ局も来ていた。その会の帰りに。いつも大坂へ戻るのだが名古屋経由で帰ろうとしたら、新宮止まりの電車しかなく、名古屋行きの電車の待ち時間のため新宮で一時下車し、新宮市内を歩いた。そこで初めて新宮の文化が結構平安末期以上に独自の文化があることを知った。
明治以後の新宮の文化は石炭積み込み港として日本郵船が寄港して、最新の文化が流入したと思う。