花香恭次郎
福島事件 高橋哲夫著より
花香恭次郎 《はなかきょうじろう》 東京府深川区深川伊勢崎町士族(今の江東区清澄公園の近く)
福島自由新聞記者。ペル-日本来航のとき応接した浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男として安政3年香取に生まれる(誤り)。
明治時代自由民権運動の弾圧として知られる福島事件の時、過激な発言で投獄される。
明治16年判決 禁固5年の不当判決
明治22年の明治憲法発布による大赦で釈放となる。明治23年7月1日の第一回衆議院議員選挙で千葉3区にて自由党から立候補し348票を取るが落選する。同年に死す。34歳?今のところこれしか資料が見つからない。しかし反政府の行動が読み取れる。鶯亭金升とは親戚関係となるのだが交流があったのだろうか。
谷中墓地掃苔録 森の中に眠る人々 谷根千工房
谷中墓地の中にある墓について、その人物がどのような生涯を送ったか書いてある本。さて目的の花香恭次郎については他の福島事件の本と内容はあまり変わらないが拓本を取って活字化した文章の中身を調べる必要がまた出てきた。長井昌言が出てきた。河野広躰 (こうの‐ひろみ)が碑文を書いたのだろうが何処から経歴を調べたのだろうか。
河野広中は調べると大変だ。少なくとも福島事件で花香恭次郎と関係があって投獄されていた。花香恭次郎は鶯亭金升のおじに当たるのだろうが、明治の中頃までどんな仕事をしていて、自由民権運動の盛んになっていた福島県三春に参加していたのだろうか。明治10年代福島県令三島通庸(みしまみちつね)によって弾圧され、投獄された6人の内ただ一人の東京士族だった。ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男が花香恭次郎である。
花香恭次郎(はなかきょうじろう)墓 安政3年7月9日~明治23年8月7日(1856-1890)
甲9号8側に福島事件で石川島監獄に収監され、明治16年(1883)獄中でチフスに罹り死んだ田母野秀顕(たものひであき)の墓の隣に衆議院議長となった河野広中が花香恭次郎の墓を建てた。背景の列には福山藩最後の殿様阿部正恒と夫人(阿部正弘6女)の墓がある。黒船来航時にやりあった同士の子孫の墓が隣にある。花香の父(戸田伊豆守氏栄)と老中阿倍伊勢守正弘の関係もここにある。最後の大名といわれる広島藩主・浅野長勲(あさの・ながこと)の実弟が阿部 正桓なので福神漬の歴史に関係してくる。
田母野秀顕が獄中に死んだとき、同じ監獄にいた花香の連絡で同志が谷中に墓地を求め埋葬したという。
鶯亭金升の日記から花香恭次郎が行った養子先が花香功一郎茶法となっていた。谷中墓地にある恭次郎の墓誌から恭法の誤りとわかった。
花香恭法を検索するとようやくヒットした。高野長英が小伝馬町の牢獄火災で釈放されてから、元に戻らず脱獄した形となり逃亡した。その逃亡先の中に千葉県香取郡干潟町の 花香恭法の家に一時隠れたという。恭法の父は花香安精という和算の先生で今の大原幽学記念館に神社に奉納した一門の和算の額がある。香取佐原は数学測量の学問の進んでいた地域なのだろうか。日本地図作った伊能忠敬も付近の人である。伊能の地図を国外に持ち出そうとしたシーボルト事件に長英が関係していた(運よく逃れた)。
長英は下総の香取に内田弥太郎の門人花香恭法(ハナカキョウホウ)を訪ね、一時身を潜めている。嘉永3年(1850)3月、恭法の留守中に置き手紙を残し、マーリンの蘭仏辞典上下2冊とホンブランドの三兵戦術書蘭訳写本を質に5両を借りてこの地を後にした。
高野長英が異国との関係を「『戊戌夢物語』を著し、暗に幕府を批判した。この夢物語は英国船モリソン号の対応批判(外国船打払令)であった。モリソン号事件のあと浦賀奉行となったのがペリー来航時の戸田伊豆守氏栄だった。氏栄は花香恭次郎の父であり、鶯亭金升は氏栄3男=昌言の子である。ペリー来航が嘉永5年6月5日なのであと少し逃亡していたら、長英の人生はどうなったのだろう。
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。
花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。高野長英と戸田伊豆守氏栄と関係があったのだろうか。
花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪奉行職で死す。)
万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。
日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)
明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった・社主服部誠一)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より東北地方を巡り歩きする。
友人と謀り(佐藤清)福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。
花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。
花香恭次郎の有名度
鶯亭金升日記には花香恭次郎は有名人と書いてあった。葬儀の模様から事実であるとわかった。明治23年8月13日 読売新聞より
花香恭次郎の葬儀
コレラ病に罹り、突然亡くなった花香恭次郎の遺骸は予定どうり一昨11日午後2時麻布の河野広中邸より出棺し神式をもって谷中天王寺に葬られた。
先頭には「動議貫心肝」「忠義真骨髄」と大書してある旗二流および紅白の小旗8本、次に大同新聞社・両国中村楼・在京大同倶楽部員諸氏より寄贈された造花数十基、次に前駆として稲垣示・龍野周一郎・井上三郎・石塚重平・八木原繁祉・山本幸彦の六氏・次に祭官権中教正竹先嘉通氏、次に唐棺。次に祭官権中教佐々木幸見、同戸田忠幸の両氏、次に楽人三名、次に「仁者以存亡不易志」「義者以盛衰不改節」と染め出してある大旗二流、次に銘旗、次に霊柩、その前後に青年自由党弾鋏義会より送られた「慷慨追悼(こうがいついとう)」の文字を記してある大旗六流、次に呉床、次に墓標、次に喪主河野広中氏、次に花香氏の親戚・政友等、車列を乱さず日吉町大同クラブ前を過ぎ、このところに待ち受ける人々その途中から葬列に加わる人少なからず。午後5時谷中天王寺に着き葬儀となる。花香氏の遺言に従い故田母野秀顕氏の墓側に埋葬し、それより植木枝盛、末広重恭、坂崎斌、青年自由党総代後藤周佐等諸氏の弔詞弔詩の朗読があった。葬式は全て終わって帰途にのぼったのは午後7時頃だった。又市中楽隊一組(14名)行列の先にたち処々に悲壮悲嘆の音楽を演奏し、会葬者に悲哀の情を切にならしめた。
この日の会葬者は四百四十余名にてその主なる人々は大井憲太郎・内藤魯一・植木枝盛・杉田定一・田中賢道・山田武甫・杉浦重剛・鈴木昌司・末松三郎・大江卓・末広重恭・菊池侃二・上田農夫・綾井武夫・及び青年自由党総代・青年自由同盟倶楽部総代弾鋏義会総代等にて後藤・板垣両伯爵にも特に代理をもって弔意を表したという。
鶯亭金升はこの自由民権運動家や政治家連中の中で團團珍聞の主筆でなく花香恭次郎の親族として参列していたと思われる。福島事件の裁判中、福島では子供たちが田母野や花香の演説を真似た遊びが流行っていたという。また高等法院で裁判中、福島事件の若手の被告人の浮世絵が売り出されていたようである。
今の政治家も亡くなると党本部や国会周囲を遺体が載った車で訪れているが、明治の20年代も同じことを行っている。車列とは人力車の列と思われる。
平島松尾・福島事件の被告。明治22年憲法発布時に釈放、後に国会議員となる。彼の著書によって花香の碑文の内容は愛澤が仙台監獄中で聞いた経歴から起草したと思われる。安達憲政史平島松尾著
福島事件 高橋哲夫著より
花香恭次郎 《はなかきょうじろう》 東京府深川区深川伊勢崎町士族(今の江東区清澄公園の近く)
福島自由新聞記者。ペル-日本来航のとき応接した浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男として安政3年香取に生まれる(誤り)。
明治時代自由民権運動の弾圧として知られる福島事件の時、過激な発言で投獄される。
明治16年判決 禁固5年の不当判決
明治22年の明治憲法発布による大赦で釈放となる。明治23年7月1日の第一回衆議院議員選挙で千葉3区にて自由党から立候補し348票を取るが落選する。同年に死す。34歳?今のところこれしか資料が見つからない。しかし反政府の行動が読み取れる。鶯亭金升とは親戚関係となるのだが交流があったのだろうか。
谷中墓地掃苔録 森の中に眠る人々 谷根千工房
谷中墓地の中にある墓について、その人物がどのような生涯を送ったか書いてある本。さて目的の花香恭次郎については他の福島事件の本と内容はあまり変わらないが拓本を取って活字化した文章の中身を調べる必要がまた出てきた。長井昌言が出てきた。河野広躰 (こうの‐ひろみ)が碑文を書いたのだろうが何処から経歴を調べたのだろうか。
河野広中は調べると大変だ。少なくとも福島事件で花香恭次郎と関係があって投獄されていた。花香恭次郎は鶯亭金升のおじに当たるのだろうが、明治の中頃までどんな仕事をしていて、自由民権運動の盛んになっていた福島県三春に参加していたのだろうか。明治10年代福島県令三島通庸(みしまみちつね)によって弾圧され、投獄された6人の内ただ一人の東京士族だった。ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の五男が花香恭次郎である。
花香恭次郎(はなかきょうじろう)墓 安政3年7月9日~明治23年8月7日(1856-1890)
甲9号8側に福島事件で石川島監獄に収監され、明治16年(1883)獄中でチフスに罹り死んだ田母野秀顕(たものひであき)の墓の隣に衆議院議長となった河野広中が花香恭次郎の墓を建てた。背景の列には福山藩最後の殿様阿部正恒と夫人(阿部正弘6女)の墓がある。黒船来航時にやりあった同士の子孫の墓が隣にある。花香の父(戸田伊豆守氏栄)と老中阿倍伊勢守正弘の関係もここにある。最後の大名といわれる広島藩主・浅野長勲(あさの・ながこと)の実弟が阿部 正桓なので福神漬の歴史に関係してくる。
田母野秀顕が獄中に死んだとき、同じ監獄にいた花香の連絡で同志が谷中に墓地を求め埋葬したという。
鶯亭金升の日記から花香恭次郎が行った養子先が花香功一郎茶法となっていた。谷中墓地にある恭次郎の墓誌から恭法の誤りとわかった。
花香恭法を検索するとようやくヒットした。高野長英が小伝馬町の牢獄火災で釈放されてから、元に戻らず脱獄した形となり逃亡した。その逃亡先の中に千葉県香取郡干潟町の 花香恭法の家に一時隠れたという。恭法の父は花香安精という和算の先生で今の大原幽学記念館に神社に奉納した一門の和算の額がある。香取佐原は数学測量の学問の進んでいた地域なのだろうか。日本地図作った伊能忠敬も付近の人である。伊能の地図を国外に持ち出そうとしたシーボルト事件に長英が関係していた(運よく逃れた)。
長英は下総の香取に内田弥太郎の門人花香恭法(ハナカキョウホウ)を訪ね、一時身を潜めている。嘉永3年(1850)3月、恭法の留守中に置き手紙を残し、マーリンの蘭仏辞典上下2冊とホンブランドの三兵戦術書蘭訳写本を質に5両を借りてこの地を後にした。
高野長英が異国との関係を「『戊戌夢物語』を著し、暗に幕府を批判した。この夢物語は英国船モリソン号の対応批判(外国船打払令)であった。モリソン号事件のあと浦賀奉行となったのがペリー来航時の戸田伊豆守氏栄だった。氏栄は花香恭次郎の父であり、鶯亭金升は氏栄3男=昌言の子である。ペリー来航が嘉永5年6月5日なのであと少し逃亡していたら、長英の人生はどうなったのだろう。
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。
花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。高野長英と戸田伊豆守氏栄と関係があったのだろうか。
花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪奉行職で死す。)
万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。
日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)
明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった・社主服部誠一)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より東北地方を巡り歩きする。
友人と謀り(佐藤清)福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。
花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。
花香恭次郎の有名度
鶯亭金升日記には花香恭次郎は有名人と書いてあった。葬儀の模様から事実であるとわかった。明治23年8月13日 読売新聞より
花香恭次郎の葬儀
コレラ病に罹り、突然亡くなった花香恭次郎の遺骸は予定どうり一昨11日午後2時麻布の河野広中邸より出棺し神式をもって谷中天王寺に葬られた。
先頭には「動議貫心肝」「忠義真骨髄」と大書してある旗二流および紅白の小旗8本、次に大同新聞社・両国中村楼・在京大同倶楽部員諸氏より寄贈された造花数十基、次に前駆として稲垣示・龍野周一郎・井上三郎・石塚重平・八木原繁祉・山本幸彦の六氏・次に祭官権中教正竹先嘉通氏、次に唐棺。次に祭官権中教佐々木幸見、同戸田忠幸の両氏、次に楽人三名、次に「仁者以存亡不易志」「義者以盛衰不改節」と染め出してある大旗二流、次に銘旗、次に霊柩、その前後に青年自由党弾鋏義会より送られた「慷慨追悼(こうがいついとう)」の文字を記してある大旗六流、次に呉床、次に墓標、次に喪主河野広中氏、次に花香氏の親戚・政友等、車列を乱さず日吉町大同クラブ前を過ぎ、このところに待ち受ける人々その途中から葬列に加わる人少なからず。午後5時谷中天王寺に着き葬儀となる。花香氏の遺言に従い故田母野秀顕氏の墓側に埋葬し、それより植木枝盛、末広重恭、坂崎斌、青年自由党総代後藤周佐等諸氏の弔詞弔詩の朗読があった。葬式は全て終わって帰途にのぼったのは午後7時頃だった。又市中楽隊一組(14名)行列の先にたち処々に悲壮悲嘆の音楽を演奏し、会葬者に悲哀の情を切にならしめた。
この日の会葬者は四百四十余名にてその主なる人々は大井憲太郎・内藤魯一・植木枝盛・杉田定一・田中賢道・山田武甫・杉浦重剛・鈴木昌司・末松三郎・大江卓・末広重恭・菊池侃二・上田農夫・綾井武夫・及び青年自由党総代・青年自由同盟倶楽部総代弾鋏義会総代等にて後藤・板垣両伯爵にも特に代理をもって弔意を表したという。
鶯亭金升はこの自由民権運動家や政治家連中の中で團團珍聞の主筆でなく花香恭次郎の親族として参列していたと思われる。福島事件の裁判中、福島では子供たちが田母野や花香の演説を真似た遊びが流行っていたという。また高等法院で裁判中、福島事件の若手の被告人の浮世絵が売り出されていたようである。
今の政治家も亡くなると党本部や国会周囲を遺体が載った車で訪れているが、明治の20年代も同じことを行っている。車列とは人力車の列と思われる。
平島松尾・福島事件の被告。明治22年憲法発布時に釈放、後に国会議員となる。彼の著書によって花香の碑文の内容は愛澤が仙台監獄中で聞いた経歴から起草したと思われる。安達憲政史平島松尾著