自由新聞
明治15年板垣退助は自由党を結成したが党の機関紙とも言える新聞を持っていなかった。6月25日創刊したが板垣の洋行問題が改進党系の新聞に攻撃されると改進党の背後に大隈重信・三菱がいると考え(海坊主・大熊退治)報道をし、改進党を偽党として攻撃した。特に郵便汽船三菱会社に対する攻撃は執拗だった。政府の資金で拡大し、独占的利益をしめて、船賃を高値に吊り上げていると自由新聞が数字を挙げて三菱を攻撃していた。これは7月に三井と政府が三菱の海運独占を阻むため共同運輸という船会社を発足していた背景がありました。明治16年1月に共同運輸の船が就航すると以後2年間にわたって海運の料金値下げ競争が始まりました。明治16年1月の自由新聞も連日のように三菱批判の記事を書いていたのでついに三菱は自由新聞に船便の広告を出さなくなり、共同運輸の広告にとって変わった位でした。福神漬が缶詰に入って命名された時期と重なります。16年3月には上野で水産博覧会が開催されています。三菱の人達が何か印象の残ることが福神漬を食べていた時あったのでしょうか。楽しいことの記憶は忘れがちですが苦しく大変なときの記憶は残ります。共同運輸との競争、岩崎弥太郎の死(明治18年2月)など三菱の・日本郵船の人達にとって一番大変な時期だっただろう。
日本郵船株式会社のホームページに(株主の皆様へ)というところに社史があります。そこにカレーライスと福神漬のエピソードがあります。社史の大事な部分にあるので最初は誰にも害の無い無難な話題だから記載されていたのだろうと思っていたがここまで調査がすすんでくると三菱の歴史の中に記述されないところにかなり重要な記憶としての残っていたのだろうか。
明治15年板垣退助は自由党を結成したが党の機関紙とも言える新聞を持っていなかった。6月25日創刊したが板垣の洋行問題が改進党系の新聞に攻撃されると改進党の背後に大隈重信・三菱がいると考え(海坊主・大熊退治)報道をし、改進党を偽党として攻撃した。特に郵便汽船三菱会社に対する攻撃は執拗だった。政府の資金で拡大し、独占的利益をしめて、船賃を高値に吊り上げていると自由新聞が数字を挙げて三菱を攻撃していた。これは7月に三井と政府が三菱の海運独占を阻むため共同運輸という船会社を発足していた背景がありました。明治16年1月に共同運輸の船が就航すると以後2年間にわたって海運の料金値下げ競争が始まりました。明治16年1月の自由新聞も連日のように三菱批判の記事を書いていたのでついに三菱は自由新聞に船便の広告を出さなくなり、共同運輸の広告にとって変わった位でした。福神漬が缶詰に入って命名された時期と重なります。16年3月には上野で水産博覧会が開催されています。三菱の人達が何か印象の残ることが福神漬を食べていた時あったのでしょうか。楽しいことの記憶は忘れがちですが苦しく大変なときの記憶は残ります。共同運輸との競争、岩崎弥太郎の死(明治18年2月)など三菱の・日本郵船の人達にとって一番大変な時期だっただろう。
日本郵船株式会社のホームページに(株主の皆様へ)というところに社史があります。そこにカレーライスと福神漬のエピソードがあります。社史の大事な部分にあるので最初は誰にも害の無い無難な話題だから記載されていたのだろうと思っていたがここまで調査がすすんでくると三菱の歴史の中に記述されないところにかなり重要な記憶としての残っていたのだろうか。