年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

幻の三浦大根(白首)築地に入荷

2005年12月26日 | 趣味としての漬物
幻の三浦大根物語 
2004年10月下旬に日本を襲った台風23号は白首の三浦大根を絶滅させた被害を思い出しました。12月26日、築地市場に真っ白な三浦大根が5本ポリ袋入りの荷姿で入荷しました。

1979年(昭和54年)10月中旬、三浦半島を襲った台風20号で収穫前の大根は傷んだ、一般に三浦大根の作付けは9月。遅くても10月初旬には植えなければならないので三浦大根の農家は10月下旬では生育期間が2カ月と、三浦大根より1カ月ほど短い、関西地方で売れていた青首大根を植えた。青首は収量が多く、畑から引き抜く作業も楽だった。土地も選ばず、病気にもなりにくい。この年を境に、三浦大根の農家が作付け品種を青首大根に変えた。平成の現在、三浦半島で生産される大根で青首でない白い三浦大根の占める割合は、1%もありません。
経済性
核家族化が進み一家庭での消費量が少なくなり三浦大根のような太くて大きい大根は使い切れない。反面青首大根は小型で1本1キロ位で扱いやすい。
スーパーで白首三浦大根より青首大根の方が売場が狭くていい。
農家では、三浦大根よりも青首大根の方は、同じ面積の畑でたくさん本数を作れ、軽くて多少乱暴に扱っても三浦大根みたいに割れず、栽培期間が短く、天候の影響が少なく病気にも強い揃いも良く、市場うけも良いなど利便性がある。
時代の流れで経済性が優先され、味や古き良き時代の食文化は、おざなりにされて来ました。

昭和54年の台風20号の被害は三浦大根だけでなく,他地産地の地域特産大根も被害受けた。他産地も青首大根に切り替えるところが増え,沢庵漬用の白い大根は次第に契約栽培のみとなった。各地で栽培されていた昔ながらの地域特産の大根も消えて行った。
三浦半島の畑でつくられ、白首で太いものは「三浦大根」、横浜付近が原産で、根が短く胴が太い晩生の大根と、練馬系の大根とが自然交雑して出来たものです。耐寒性が強く、冬期温暖な土地ではよく肥大もします。冬のあたたかい神奈川県三浦半島で盛んに栽培され、特産となりました。長さは60~70cm、重さは2~3kgで、鬆(す)の入ることが少なく、肉質は緻密です。一月中旬~三月中旬まで出荷されました。
大根の本来の味を生かしたふろふき大根、おでん、なますなどに最適です。
三浦大根が“おでん”用に愛用されたのは、ズン胴で、シッポが少なく、肉質が均質な胴が長いため、おでんに利用できる部分が多いからである。肉質が柔らかくて繊維も細く、甘みもあります。

追記 三浦の青首大根を干して漬けてもタクワン漬にはなりません。

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大根河岸の大根はどこから 江戸時代1

2005年12月26日 | 趣味としての漬物
大根河岸の大根は時代によって産地が移動しています。江戸幕府が始まった頃は武士も自給自足のようだったが江戸の都市計画の進展によって、人口が増加し野菜栽培が増えた。今と違って徒歩経済なので産地は3里(約12km)以内の土地だった。
従って、大根のような重い野菜は舟運が重要視される。軽い葉物野菜は今の江東区、葛飾区、足立区、江戸川区等で栽培された。重い土物の野菜は西山と呼ばれた今の板橋、練馬、新宿、世田谷等の農家で栽培された。
 さいたま市浦和博物館報 “あかんさす”85号より
江戸時代の前期に人間の口に入るありとあらゆる食物を解説した「本朝食鑑」という本には,大根のおいしい産地として,練馬,板橋,浦和という地名が記されています。この「本朝食鑑」という本を刊行したのは、医師である人見必大という人物です。人見氏は浦和(大久保)の土地に縁があり、そこで食した大根と考えられる。大久保の地は現在のさいたま市桜区にある埼玉大学のところで、さいたまの野菜が羽根倉河岸(羽根倉橋付近・国道463号の荒川架橋)より荒川舟運によって、江戸の市場へ出荷されていきました。

 羽根倉河岸
埼玉県さいたま市  明治7年(1874)の船積問屋調べによると寛文2年(1662)に問屋が設立されています。明治20年代の「荒川流域河川調査書」(『新編埼玉県史21』)では、米、竹、薪、醤油などが東京に送られ、肥料、木材、石材、塩が東京より運ばれました。

 六斎市と取引物資
 与野町では六斎市(月に6回開く市)として4,9のつく日に市場が開かれ、米・麦・粟・稗・大豆・小豆、土物(大根・ごぼう・芋など土中の作物)などの売買が行われていました。これら市場で取引された物資は、与野町に近接する戸田河岸、羽根倉河岸(現さいたま市)などから荒川舟運で江戸へ送り出されて行きました。




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大根河岸と舟運 新河岸川1

2005年12月24日 | 趣味としての漬物
河岸とは
辞書によると
1)川の岸。特に、船の荷物の積みおろしをする岸。
(2)川岸に立つ市場。
江戸時代の物流は大量、安価に運ぶには舟運を利用していました。多くの河岸がありました。現在、関東地方で舟運の歴史を調べる博物館として、川越市立歴史博物館、江東区中川船番所資料館、ふじみ野市上福岡歴史民俗資料館,福岡河岸記念館、千葉県立関宿城博物館等があります。
 新河岸川の舟運の荷物を調べると江戸より川越には糠、干鰯(ホシカ)灰、葛西船(かさいぶね)と呼ばれた下肥等の肥料が運ばれ、サツマイモ、川越そうめん等が江戸に運ばれました。
江戸時代からが新河岸川を往来し、沿岸の舟問屋の中にはこの肥料を専門に扱っていた店もあった。ふじみ野市の福岡河岸は、三富新田や武蔵野開発による農業生産力の向上によって、大いに繁盛した。
川越のサツマイモは有名だが、江戸で焼き芋として多量に販売されたのがその名声につながったという。サツマイモや大根のような重い物を大消費地まで運べたのも、すべて舟運があってのことだった。船による輸送は江戸時代では物資を大量に運ぶための手段であり、経済をささえる重要な役割を果たしていた。
 ふじみ野市福岡河岸記念館
寛永15年(1638年)の川越の大火で消失した仙波東照宮の再建資材を江戸から新河岸川で運んだのが舟運の始まりとされています。その後10年ほどして、江戸と川越を結ぶ物資輸送が発達し、多くの河岸場が出来ました。ふじみ野市福岡河岸記念館は明治時代初期の福田屋の建物で舟問屋の様子が解ります。




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始まり

2005年12月11日 | 築地市場にて
築地市場は東京都の指導のもと、平成24年に江東区の豊洲に移転する予定になっていて、平成18年3月に延長開通する(ゆりかもめ)駅名に市場前となっている。今のうちに築地市場のあまり知られざる話を記録に残しておきたいと思う。
 多くの人は築地市場は日本橋の魚河岸が移転してきたと思われているが京橋にあった大根河岸(青果)も同時に昭和10年2月11日移転して来たのである。(実際は水産部は遅れて移転した)
 明治の宵 より 東京中央青果㈱初代社長 藤浦富太郎著
昭和10年2月11日朝 市中音楽隊の先導で京橋市場を後にして。行く者も涙,見送る者も涙、なき別れの形で自分たちの揺籃の地を去って築地に入った。
 その日はあいにくの雨が降っていて、いっそうの哀愁を誘った。築地市場本館の屋上で入場式が行なわれたが、いずれも傘を差しかけ、きわめてしめやかな気持ちの中で色々な行事が行なわれた。
 自分達の親兄弟や祖先が築いたその土地から離れて、新しい場所で営業するということにはかなりの不安もあり、同時にまた旧市場への止め難い愛着もあり、その上、今後どんな風に商売をして行ってゆくものか、やっていけるのだろうかという、将来に対して成算のもてない場所での営業を開始することになったから一同悲壮な決心だったわけである。
 注 大根河岸では相対売りで築地市場は公正を期するためセリ売りになった。

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