年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

昭和30年までの漬物業の苦悩

2023年12月19日 | 趣味としての漬物
戦前の物資不足と統制
昭和13年7月9日物品販売価格取締規則(マル公)90品目
 あらゆる生活必需品に国が値段をつけ、その価格以上での販売を禁じた。
昭和14年9月18日
九・一八価格停止令公布(10月20日施行) マル停
物品販売価格取締規則(マル公)90品目だったので、同一商品でも値段が違うという混乱があった。

価格停止令公布以後高くしたい値段を業者組合で協定、官庁許可をうけたもの マル協

行政庁の許可を受けた例外的な“許可価格品”は マル許

価格停止令公布以後の新製品は マル新

この様な状態では公定価格を破るヤミ取引で商品を販売し、また依存していった。その結果、高輪・月島・渋谷の警察署に多数の業者が検挙され、早くて2日。一週間から10日の拘置をうけた。取調べは極めて厳しく、剣道に使う竹刀で殴りつけ威嚇してから取り調べするといった状態であった。
 漬物は軍需物資であったため優先的に砂糖の配給を受けていたが,軍のほうで福神漬を分析した結果、配給した砂糖の総量に満たない結果が出たため憲兵隊の取調べを受けた。
 漬物統制組合事務所にも憲兵が調査に来て、書類等を押収した。主要な福神漬業者は憲兵隊に拘引され、警察を上回る暴力的取締りを受けたが、業者はやましいところはなく、糖度測定方法の違いから来る誤差が憲兵隊の曲解をもたらしたと伝えられている。

良い漬物と提供したいという思いは時局、行政との摩擦を引き起こしていたのである。出典 炎よ永遠に 東京都漬物事業協同組合史
この本は都立中央図書館、味の素食の文化センタ-に蔵書がある。
 福神漬の憲兵隊の取り締まりだが具体的な内容が判らないが、想像だが
食塩濃度のパーセントは、塩を混ぜた後の食塩水の重さのうち、何グラムが塩の重さであるかという事ですが、そこまで細かく計算しなくても、1リットル(1000g)の3%、つまり30gの塩を入れればほぼ3%の食塩水が出来ます。 ちなみに、正確に計算すると、このやり方だと誤差は生じていて、憲兵の知識と漬物業者の見解が異なっていたようです。福神漬につかう砂糖と出来上がった福神漬の目方の計算違いと思われる。なお軍隊用の漬物はサッカリンの規制を当時は逃れていた。
人工甘味質取締規則
(明治34年10月16日内務省令第31号)
(主としてサッカリンという人工甘味料の取り締まり)
 軍隊への納品は販売目的で無いという理由でずっとサッカリンは規制外だった。従って、終戦間際に砂糖が極端に不足した時漬物にサッカリンの一般国民にも使用許可が出た。千分の3で今でもタクワン漬のサッカリンの使用許可量は0.3%となっている。この規制の始まりは外貨を浪費する砂糖消費を抑える目的で始まった。戦中は砂糖事態が無かった。
 戦前のサッカリン問題の記憶が今でも残っていて(闇市にサッカリンが流出していて)、漬物業者は添加物排除志向の人にいつも攻撃されている。今は食品分析機器が普及し、ごく少量でも検出できるので、数値が出ると包装の表記違反となる。アレルギ-表示と同じで一気に信用を落とすし、製造時に機械の洗浄に時間がかかって、サッカリン使用の漬物は専用工場にしている。
 それゆえ戦後に売れた浅漬沢庵がいつの間に消えた。そして今は誰も知らない。長野県の信州早漬沢庵は戦後に中国や外地から日本に引き揚げた農民で開拓された、高冷地でいまは高原野菜の産地として知られているが、野菜の前は大根の産地であった。
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雨の日に、記事の整理整頓

2022年12月06日 | 趣味としての漬物
昔に書いた記事で、回想法ということで、誤字、意味不明な分を直しつつ再度アップしてみたい。
 大根河岸
大根河岸は東京都中央区の銀座のとなり、京橋から比丘尼橋(中央区八重洲2-11)にかけての約200mの区間である。築地市場の青果部は京橋にあった大根河岸の市場が昭和10年に移転して発足したもので、すでに70年余の歴史になる。“京橋大根河岸”(中央区京橋3-4)の碑に書いてあるように江戸の京橋にあった市場に大根の入荷が多かったためである。
 江戸時代から明治、大正と大震災まで、銀座という街とともに親しまれたのは、銀座の北の入り口に庶民のための青果市場があった。現在でも野菜の大根は青果市場では重要な位置を占めている。

三白という野菜は大根・白菜・キャベツのことで、漬物用としてはキャベツは少ない。ドイツではキャベツの発酵した漬物がある。日本のダイコンの歴史は古く、品種も多いし、加工する漬物としてタクワン漬がある。また料理の種類も多い。
八重洲2丁目 比丘尼橋(現在名は城辺橋)は、江戸城東側の外濠より流れ出る京橋川に最初に架かっていた橋である。比丘尼とは、出家した尼僧を指したが、江戸時代には尼の姿をした私娼のこともいい、この橋の近くに比丘尼宿があったため橋の名前がついたといわれている。
 広重? 「名所 江戸百景より」
びくにばし雪中

喜田川守貞の近世風俗志には「今の世、獣肉割烹の店,招牌の行燈等に必ず山鯨と記すこと三都しかり也」と出ている。山くじらは、獣肉全般を指すこともあったようで
歌川広重?の浮世絵「名所江戸百景 びくにはし雪中」の中に、雪景色を背景に山くじらと書かれた大きなのぼりが描かれている。また同浮世絵の中の「○やき」とは焼き芋の屋台のこと。また十三里とは川越産の芋のこと、江戸より川越まで十三里、
栗(9里)より(4里)うまい  9里+4里=13里
 大根河岸と芋の関係は川越との新河岸川舟運の歴史のつながる。大根河岸は新河岸川にも2ヶ所ある。北区赤羽3-27地先(袋村河岸)、板橋区小豆沢4-27(小豆沢河岸)
江戸時代は今より平気で(放屁)の話が会話に出てくる。風刺画で屁のガスが大砲のように書かれ、吹き飛ばされている。川越は焼き芋のイモの産地と知られ、食した後の放屁を比喩されている。

 結構間違っている所もあって、18年の歳月を感じる。キムチで・寄生虫事件が中国と韓国で勃発し、今でもキムチの言葉とか発祥地争いが続く。この騒動のとばっちりが日本の漬物業者を直撃した。戦後の朝鮮漬の流れで、不景気になって価格競争となり、キムチのタレで一夜漬の白菜漬にキムチのタレを混ぜて白菜朝鮮漬として販売した。そこから韓国風に白菜の葉の中に薬味等を挟み込む丁寧な味付けと、熟成発酵した朝鮮漬を従来の手抜きした商品と差別化するため韓国風の名前の付けて販売単価を上げた。
 ところが韓国風の名前が付いていたため、寄生虫キムチ騒動で売り上げが減少した。そこで日本の漬物業者が節操もなく、韓国産と区別するため(和風キムチ)と国産白菜使用と表示し、韓国のイメ―ジのあるキムチの売り場を排除した。量販店のバイヤ―も漬物の中でキムチの売上が占める割合が高く、売り場を空けておくことは出来なかった。今は再び韓国アレルギ-が消えマンネリ化した日本キムチから韓国産キムチを取り戻しつつある。
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日本人の缶詰製造の始まり 3系統ある

2021年04月05日 | 趣味としての漬物
福神漬は明治10年代後半に缶詰に入れた醤油で漬けた野菜の漬物から諸説が生まれた。大方の説では明治18年に命名されたという。創製した酒悦さんの話では上野公園が戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)の戦争で荒廃し、元の行楽地に復活する時期で、観光客用の持ち運びの出来る食品開発をしていたという。
古い年代から諸説を上げると
河村瑞賢説
了翁禅師説
酒悦主人・野田清衛門説
陶山・田中芳男説などがある。
また日本における缶詰の始まりも3系統の話があって、日本缶詰協会では長崎の松田雅典説で長崎市は日本での缶詰製造の始まりとしている。また缶詰協会の工業的生産として北海道開拓使の缶詰製造が挙げられている。ただ明治事物起源を著した石井研堂は山田箕之助とし、米国人から製造方法を習ったという。
 福神漬のJAS規格の定義から行くと酒悦説が妥当だが他の説もそれなりの根拠があって、火のない所に煙が立たないという感じがする。
 河村瑞賢説は新川の酒問屋か高橋太華(根岸党)あたりから広まったかもしれない。了翁禅師説は京都の中国風禅宗万福寺の影響から来ているかもしれない。これは長崎貿易の砂糖から来ている可能性がある。
 一番研究しにくいのが田中芳男説で彼が農林水産系の業績が残る。
大日本洋酒缶詰沿革史―日本和洋酒缶詰新聞 1915 大正4年頃の出版で、福神漬の史料としては古い。この本で田中説がある。田中の説は彼の業績から、農林水産業の発展の過程で缶詰を取り上げた気がする。福神漬命名時は松方デフレの時代で旧来の産業を保護しつつ、失業した武士へ従来の仕事と競合しない産業開発を目指していたようだ。例を挙げると、牛乳から牧畜などから札幌農学校へ向かう。水産物を缶詰に入れて輸出する。しかし、官営の事業は殆ど失敗し、失敗した事業を引き継いだ人たちが生き残った。多くの西洋から日本に入った事業が西南戦争からほぼ10年毎の戦争で軍隊と言う安定した販売先で事業が継続できた。今は消えた福神漬も大正12年の震災前は缶詰協会の中でも缶詰食品の中で重い地位があった。
 先の大戦で日本は負けたが、軍隊と言う組織を支援する食品産業があったことを調べる人は少ない。兵器は戦争や演習で消耗するが、食は日々消化して、さらに国が代価を支払うので安心できる。多くの陸軍師団に納品していた漬物会社が今でも社史に残る。陸軍は福神漬とタクワンと日の丸弁当用の赤い梅干し。
 昭和の初めの中国の戦線拡大と練馬の大根の病気がどうかかわったかまだ文献は見つからない。
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つけもの史の見方①

2019年10月12日 | 趣味としての漬物

漬物は昭和30年頃までは都市を除いて各家庭で漬る物が主だった。従って販売すようになったのはごく最近の60年とも言える。漬物の歴史から見ると日本経済の発展と共に色々な資材や機械が普及して安価になってまたは不用になって初めて漬物に使用された。味噌・醤油・塩・砂糖・酒粕・米糠・樽・缶・プラスティック等が漬物の味付けや製造・包装容器等に使用されたのはかなり普及した後とも言える。包装機が安価となり、自動計量機が作られ、人手不足が解消された。キムチの世界では空気中の雑菌を除去する幕が使用されいる。これはICチップを作成する工場と同じ考え方である。  明治の中頃まで日本の流通は徒歩経済で近代的な交通の発達で漬物流通は影響を受け、交通の普及具合を示している。このような見方から漬物は日本の食品の近代化の歴史を示しているともいえる。

戦後最悪の台風が来ているので、外出を抑え未投稿の見直し。ほぼ15年前の草稿を書き直し。昭和33年の狩野川台風は今でも記憶に残っている。床下まで浸水し、翌々日まで水が残った。野菜と交通網の被害が大きく、損害よりその後の忙しさでカバ-したようだ。先日伊豆の戸田への帰り道に狩野川の水のバイパストンネルを見て床下浸水を思い出した。

 

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キムチと梅 政治に左右される

2019年02月20日 | 趣味としての漬物

悪化の一途をたどる日韓関係でキムチの売れ行きは国産は変わらない。しかしキムチの販促につながるTV番組の反響はイマイチで一時の話題しかない。しかし梅に関しては梅産地議員んぼ活躍と和歌山県の応援でまだまだ続きそうだ。昨年以前は災害等で不作続きだったがようやく復活したようだ。贈答品が個人用にも使用され昔の勢いが出たようだ。

 地方の活性化には観光が一番だが農産水産加工も所得を維持するには良い手段といえる。少ない収入でもネットの時代は東京と同じとなる。

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奈良漬は奈良時代というけれど

2015年11月26日 | 趣味としての漬物

 

NHKの番組で奈良漬は奈良時代ということを放送していた。長い漬物業界に身を置いていて聞いたことない説である。まだ奈良漬を調べていないが粕漬けという説から春日となり、春日大社を思い起こし奈良漬となったという説もある。

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今日はらっきょう

2014年07月02日 | 趣味としての漬物

 

NHKの[ためしてガッテン]でえラッキョウが出るようだ。素材として旬になるのだが漬物のラッキョウはどう処理されるのだろうか。

 青果物のラッキョウは国産がほとんどだが漬物用、特に安価なラッキョウ漬は中国産がほとんどである。それは根と茎の処置が機械化されず、さらに手が荒れることで日本人がやりたがらない仕事となってしまった。

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女郎買のぬかみそ汁

2014年04月11日 | 趣味としての漬物

絵解き)江戸庶民のことわざ
F.ステナケル著 上田得之助著 河鍋暁斎画 北村孝一訳・解説

河鍋暁斎を検索していたら、この本に出会った。江戸時代の食生活の中で糠の役割が今ではわからなくなってことわざとして残っていても解説があまり正確ではない。 
 江戸の食文化研究者の松下幸子さんの本によると漬物のぬかみそ漬が現れたのは江戸時代の後期であるという。つまり江戸時代のほとんどの時期では『ぬかみそ』は本当にみそ汁の代用として食されていたようだ

辞書では1 古い糠味噌を味噌代わりにして作った、粗末な汁。
2 《「女郎買いの糠味噌汁」から》家ではけちで、ひどい粗食をすること。

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露茜(つゆあかね)

2014年04月04日 | 趣味としての漬物

紀州の梅の新品種で梅とスモモの交雑種ということで色鮮やかという。品種登録されて数年経つが色鮮やかということでもう少し出回ると思うがまだ試食の機会はない。梅ジュ-スとか梅酒に適しているという。
 今年の梅の作柄はソロソロ発表されると思うが昨年並みだろう。ただ梅の病気の蔓延が気にかかる。
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世界無形遺産の二重登録か

2013年10月29日 | 趣味としての漬物
和食が世界無形文化遺産に登録されそうだが韓国がキムチを無形遺登録申請しているので漬物が二重登録になりそうだ。しかし漬物が遺産に登録というのは危機があるためである。それ韓国日本共に漬物離れになりつつある。コンビニ弁遠当の添え物の漬物はレンジであったためるとおいしくない。まさか韓国のコンビニ弁当でキムチを入れたまま電子レンジで温めることはないのだろうか。これこそキムチを破壊する行為である。
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ザワークラウト

2013年05月07日 | 趣味としての漬物

キャベツの漬物だが日本では馴染みがない。ドイツなどでは軍隊食として普及したようだ。BBCのテレビ番組でキャプテンクックの航海でザワークラウトとレモンを食べたため、ビタミンC不足による壊血病から一人の死者が出なかったという。ザワークラウトはビタミンCが豊富に含まれている。当時はまだ壊血病がビタミンC不足と知られていなかった。
 日本の軍隊ではタクワンが知られているがビタミンB1不足を補う量はなかった。精米した白米常食による脚気はビタミンB1の不足と知ったのは大正のころで脚気が無くなったのは戦時中の米不足の頃となる。

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朝熊小菜

2012年12月01日 | 趣味としての漬物

式年遷宮でにぎわう伊勢市で毎年正月明けにわずかの期間現れる『朝熊小菜/アサマコナ』と呼ばれる伝統野菜がある。先日名古屋で開催された地域特産の漬物会議のあと伊勢市にある漬物業者から小菜の状況を聞くと、まだ十数軒の農家が栽培していると言う。伊勢市の人達の小菜に対する保存育成策が一定の効果をあげているようだ。
 いま多くの地域で伝統野菜の復活を目指しているがその中に漬物と言う商品を混ぜないと需要を上回る生産があったとき、生産者の意欲が減退する。そして趣味で栽培する状況に陥る。
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玉椿または万両巻

2012年11月29日 | 趣味としての漬物
関東では絶滅したと思われる正月用食品の「万両巻」関西では「玉椿」というつけ物があります。どうやら関西でも間もなく赤い玉椿は絶滅しそうで一般にお目にかかるのは白い玉椿だけになったと思われます。
大きなかぶを甘酢漬けにしたものを形よく、昆布でくくってあります。高級おせち料理の一つで、酢のものとして、正月料理には欠かせないものです。製造者が少なくなり貴重なものとなってしまいました。1個40円を超える値段となってしまい、デフレの日本ではいかに正月用品とはいえその価値を認める人が少なくなったということです。

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相知(おうち)高菜

2012年01月16日 | 趣味としての漬物
佐賀県唐津市相知町付近では昭和30~40年代に盛んに栽培されていたが次第に作付が減少し、近年では全く市場に出回らず幻の高菜となっていた。相知町楠という集落で細々と栽培されていた種子が平成19年に発見され、地域特産の漬物を復刻させるため佐賀県漬物工業協同組合・JAからつ・東松浦農業改良普及センターなどの協力を得、さらに佐賀県の特産品推進支援事業の補助金を受けて、試験栽培3年めの平成22年製品化にこぎつけた。
相知高菜は三池高菜(福岡県)等の品種に比べると形状がやや小型で、肉質も軟らかいため1反(10アール)当たりの収穫量が少なく、また漬物加工業者も歩どまり等の問題で敬遠し、次第に栽培されなくなっていた。
 3月から4月かけて漬けこまれた相知高菜は乳酸発酵して漬けあがる。繊維が柔らかくおいしい。新しい佐賀の特産漬物となる。
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立冬の千枚漬

2011年11月07日 | 趣味としての漬物
11月8日は立冬です。この頃になると昔は京都付近で栽培される聖護院カブが寒さで甘みが増して千枚漬の漬け込みに最適となります。今では冷蔵庫の中で漬け込み出来るのと北海道とかの寒さの早い地域で千枚漬用のカブが栽培されているので昔ほど立冬を意識することはありません。
 千枚漬が売れ出す頃、今年の終わりを意識します。とんでもない一年が早く終わって心機一転の春を待ちたい気分です。タイの天気情報を見ているとようやく雨の少ない時期に向かっているようです。
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