また当局の不手際で犯罪者の逃亡騒動があった。福神漬の数々のエピソ-ドの中でまだ資料が見つからないの一つに高野長英が嘉永3年10月末に逃亡先で死去した経緯の解明が進んでいない。公表された記録では町奉行の人たちが高野の住居を囲み逮捕しようとしたが高野が自殺したという。2015年死去した鶴見 俊輔氏の著書(高野長英)によると町奉行の人たちによる撲殺だろうとしている。高野の性格から必死に生きようとしていたので自殺は考えにくい。与力たちによる撲殺のほうが歴史の整合性がとれる。
高野は小伝馬町の牢獄から放火による火事で逃亡した。この逃亡は町奉行の面子がとれない。数年の逃亡で全国を逃げ回り、最後に江戸の中で潜伏していた。高野長英を犯罪者に仕立てた鳥居耀蔵 が嘉永3年時には失脚していてすでに冤罪という認識は江戸市中の治安維持を掌る南北の両町奉行は知っていたと思う。しかし放火による牢獄からの逃亡は江戸市民を不安にする重罪で死罪相当の事案であることも共通の認識であると思われる。
嘉永3年の南町奉行は遠山金四郎( 景元)であった。高野長英が蛮社の獄で逮捕されたとき南町奉行は筒井政憲だった。この嘉永時期に筒井は浦賀の海防状況を視察していて浦賀奉行だった戸田氏栄と面会していると思われる。さらに筒井の次男である下曽根金三郎と手付で浦賀に出張していた内田弥太郎も浦賀にいた。鶴見 俊輔氏によると高野の江戸市内の隠れ家を手配したのは学問上の弟子であった内田弥太郎であるという。高野が死去後内田の親族等が処罰された。当時の世俗の情報を収集し記録した藤岡屋日記にも高野の一件で内田が処罰されないのはおかしいという噂があったようだ。
内田が処罰を免れた理由は次のように解釈するのが妥当だろう。江戸町奉行の幹部はすでに冤罪として認識していたが放火の罪は重く町奉行与力たちの撲殺を容認していたと思われる。ここで火付盗賊改の職にあった長井家が記録に出てくる余地がある。文政元年から文政8年まで長井五右衛門昌純は火付盗賊改の職だった。ほぼ同時期には筒井政憲が南町奉行の職に就き、20年ほど在任し、鳥居耀蔵の画策で閑職に追いやられた。浦賀奉行だった戸田氏栄3男を二番町の長井家に養子の世話をしたのは筒井政憲(出典鶯亭金升日記)だった。
遠山金四郎と筒井は嘉永の当時天保の改革で廃止された株仲間の再興の件で打ち合わせが頻繁に行われている。このことが内田の処分に関する記録がまだ歴史家の目に止まっていないと推測される。遠山、筒井、長井、内田の中で千葉万歳村の花香家に養子として戸田氏栄の庶子を斡旋したのが長井昌言(戸田氏英3男)で受け入れた花香家は内田弥太郎(五観)の関流和算の弟子である。