年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

5月末のまとめ

2011年05月31日 | 築地市場にて

そろそろ震災時に何が起こったのが判明しつつある。日本国内報道より厳しい見方が近隣海外諸国から報道されていたのが次第に現実となってきた気がする。ただ放射能の問題は今更元に戻る事は無いので現実に対応するしかない。福島県産の農産物を応援しなければならないのだが海外の厳しい産地制限で、福島より遠隔地の商品を手配する行動を現実には取っている。事故矛盾=自己矛盾
 先行き不安な電力事情では扇風機で今年の夏をやり過ごすしかない。網戸の工事が近日中に始まって、午前中は空調が止めても何とかなりそうである。築地市場の隣の浜離宮公園から元気な虫が飛来してくるので網戸で防がねば虫嫌いの社員の騒動で仕事にならない。この虫のため築地市場にはツバメが巣を作っているし、銀座には蜂蜜の巣箱があるという。セシウムを体内から排出するにはどの様な食べ物が良いのだろうか。
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築地警察のチラシ

2011年05月30日 | 築地市場にて
5月29日の朝刊の中に築地警察のチラシが入っていた。先日の築地市場市場橋門付近であった交通事故のチラシであった。そこには交通事故の概要が記載されてあった。どうやら自滅事故であった。運転者がドアを開け、バックした時、車が暴走し、他の車両に激突し、自らの開けたドアに挟まれて死亡したようである。事故の起きた時間は築地市場休市明けの午前4時半頃である。
 このチラシの言い分は『高齢運転者は免許を返納するように』と太字で書いてあった。死亡した運転者は75歳であった。築地市場には働いている高齢者が多い。80代でも現役の人がいる。朝4時半となれば公共交通機関も動いてなく、どうして築地市場に来ることが出来るのだろうか。目利きの利く人は長年の経験で鮮度の見分けが出来る。どうして築地に来る高齢者が免許を返納しなければならないのだろうか。
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台風2号

2011年05月29日 | 築地市場にて
やたらと早い梅雨入りとこの時期としては非常に強い台風が日本に接近している。梅雨とは文字と梅の季節である。6月になれば青梅が市場に出回り梅酒の時期となる。しかし台風によって梅が落果する恐れがある。産地情報としては平年作であるという。日本近海の海水温がまだ低いので紀州に接近した時は温帯低気圧になっていると思うが風は何処まで弱まっているのだろうか。
先週の木曜日朝築地市場の前の新大橋通りで交通事故があった。翌日の正門前の交番に死者1名となっていた。築地では一年半から2年に一度死者が出る。重傷についてはもっと多い。休市明けの忙しさで事故が起きたのだろう。
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井関隆子日記 中巻

2011年05月28日 | 福神漬
井関隆子日記 中巻
天保の改革時代の幕府中枢部の情報を知り得た婦人の日記。
天保12年初めに徳川家斉が亡くなると天保の改革が始まった。この日記を書いた井関隆子は後にペリー来航時に久里浜でアメリカの国書を日本代表で受け取った戸田伊豆守氏栄の妹が嫁いでいた井関家に住んで優雅に生活をし、幕府の内部情報を記述している。
天保12年閏1月24日
西小姓組戸田寛十郎氏栄はようやく願いがかない徒士の頭となる。
天保12年2月27日
氏栄は井関家を訪問し、上野の御堂の様子を語る。
天保12年7月1日
氏栄は徒頭から使番に出世する。(使番とは幕府の職制の一種で目付けと共に遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する事となる。)
天保13年6月13日
戸田氏栄が井関家を訪れ、今の本郷6丁目付近にあった森川宿で水戸の殿様の下郎と2千石の侍の下郎とのいさかいがあったことを井関隆子が氏栄に質した。氏栄の森川宿付近にあって今の文京区小日向1丁目付近だった。
天保13年7月24日
井関家の家刀自(氏栄の妹)が21日に7年前に盗賊によって殺害された父の法要のため寺に赴き、ついでに実家に訪れた。そこで氏栄が駿府に、当時百日目付といわれていた駿府使番となり出発するという情報を得る。
天保13年8月14日
戸田氏栄が朝に井関家を訪れ、20日過ぎに旅立つと告げに来た。甲斐の国に立ち寄り、駿府に向かい,公事を処理し江戸に帰ってくるのは暮れになるだろう告げてあわただしく帰った。
天保13年9月3日
印旛沼埋め立ての記事。この様な話が出ていたと思われる。
天保13年12月14日
戸田氏栄が駿府から戻る。

天保14年の印旛沼工事に目付として戸田氏栄が出てくるにはこの様な経歴があった。

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井関隆子日記 上巻

2011年05月27日 | 福神漬
井関隆子日記 上巻
天保11年井関家の主婦は戸田氏栄の妹だった。この本の後ろに、古書として購入した鹿島氏の調査によると、主婦は戸田氏栄の妹・栄子とある。戸田氏栄は天保12年1月より徒頭、同年7月より使番 、天保14年2月より目付、同年9月より駿府町奉行となり、後に浦賀奉行となり大坂町奉行の時死す。伊豆守。
 天保11年2月21日の井関隆子の日記に戸田氏栄が多くの幕臣の中で選ばれて湯島に行っている事が書かれている。幕府の歴史書が湯島で編纂されていたのだろうか。湯島聖堂を林家の管理から幕府に移し昌平坂学問所と改称したのが1790年頃なのでこの学問所で歴史を編纂していたのだろうか。もしここで戸田氏栄が20年程通っていると学問所で色々な人と付き合っていたのだろうか。
 気になることは天保14年印旛沼工事の目付として普請現場に赴いている。解任されるまでの時期に佐倉藩付近に二ヶ月ほどいたことになる。
 佐倉順天堂は蘭医斎藤泰然によってほぼ同時期(天保14年夏)に作られている。

この事実と維新の混乱期に氏栄の遺児花香恭次郎(12歳頃)が佐倉藩儒者続豊徳に入門した事と関係があるのだろうか。

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福神漬物語109古書売買の開基の地

2011年05月26日 | 福神漬
古書売買の開基の地
 江戸下谷は上野寛永寺の学僧が多かったため古書店が商売として成り立ったと思われる。明治二十年代まで古書はどんどん消えていったと言う。価格がない貴重書が他の文化財とともに海外に流出したり古紙として使用されたという。明治の錦袋円薬舗の跡地にあった琳琅閣は広すぎて、本以外の物が次第に集まり、骨董趣味の文化人・企業人のサロンになったと言う。

明治の20年代の上野界隈・当時の下谷区には元幕臣やその子孫が多く住んでいたが次第に貧しくなっていったのが幸田露伴の生い立ちの歴史を見るとわかる。同様に夏目漱石も決して恵まれていたわけではない。ただ彼等は東京と言う文明開化の地にいて日々刺激をうけていた。
 上野周辺は幕府の教育機関が多くあった、湯島聖堂は「日本の学校教育発祥の地」といわれ、さらに上野寛永寺において天台宗を学ぶ学僧もいて、教育の地でもあった。明治になって東京大学も出来て学生の町となった。琳浪閣などの古書を扱う本屋も明治の中頃には上野池之端にあった。
 最後の戯作者といわれる鶯亭金升が京都人久保田米僊を根岸党に紹介したというのも彼が池之端に住んでいたころである。(敗者の精神史)新旧の文化が上野池之端と言う地で根岸党・派を生んだ原因でもある。

反町茂雄氏の本によると上野池之端は日本における古書売買の開基の地という。武江年表に『寛永・正保の頃、長崎より唐本の商人泉屋半三郎と言うもの江戸に来たり、池之端に住し、初めて古書籍の売買をなし、のち大書肆(ほんや)となりたり。これを古書売買の初めなりぞ』とある。同じ池之端に住して、明治古本屋界雄飛した琳琅閣主人の談に、名を『千載に伝える妙薬は珍書を多く集め、これに蔵書印を捺印しておくに限る。誰でも珍書を粗末にするものがないから本と共に名は残る』

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井関隆子

2011年05月25日 | 福神漬
旗本夫人が見た江戸のたそがれ-井関隆子のエスプリ日記
深沢秋男著
天保の改革の本を読んでいたら、この本と出合った。井関隆子の日記は明治になって古書店琳琅閣の斎藤の手に入った。斎藤から高価格でこの日記を鹿島神宮の関係の手に渡り今日出版され史料となっている。池之端にあった頃の琳琅閣は古美術等の目利きが集う梁山泊とも言われていていた。その建物は江戸時代了応禅師(福神漬の元祖とも言われる漬物を作った。)の勧学屋という薬屋の跡地を購入したものだった。
 井関隆子の日記に出てくる天保11年の頃は、井関家の家刀自(主婦)は戸田氏栄の妹だった。これから井関隆子日記を読むのだが天保の改革の中で失敗の事業である印旛沼工事に戸田氏栄が工事の目付として参加している。彼は工事事業を批判したため、間もなく左遷され駿府町奉行になった。ペリー来航時の書簡集である『南浦書信』という本で氏栄という人は率直に信念を述べる人と書いてあったが、印旛沼工事に於いても幕府幹部を批判した言動があったと思われる。
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朝野旧聞 藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)から

2011年05月24日 | 福神漬
朝野旧聞 藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)編纂事業からから考える。
江戸幕府を作った徳川氏の最も詳細な史料であると言われる編纂事業に戸田寛十郎氏栄が参加している。この史料編纂事業は幕府の命令により、大学頭林述斎以下20余名の幕臣が参加している。この史書編纂事業は1819年(文政2年)から23年間かかったという。戸田氏栄(1799年生まれ)が初期から参加していたのであるとすると20歳頃から参加し、完成した時(天保13年?)は43歳になっていたと思われる。
 天保の改革の中の事業に『印旛沼工事』というものがある。天保14年に始まり、翌年の弘化元年(1843年)に老中水野忠邦の失脚により中止となった。この印旛沼工事に目付として戸田氏栄と町奉行鳥居耀蔵が参加している。戸田は工事途中で経費が予算より掛かり過ぎる事を知り、工事規模の縮小を水野に鳥居と共に進言したが逆に左遷され、戸田は駿府奉行となった。
もう少し戸田氏栄の経歴を書くと、天保12年(1841年)、西丸小姓から、徒頭に昇進した。天保13年(1842年)年7月に使番、天保14年(1843年)2月には目付となり印旛沼工事を担当すると昇進を重ねた。同年9月に左遷され駿府町奉行となり、弘化4年(1847年)1月には日光奉行、同年2月に浦賀奉行に着任し、従五位下伊豆守に叙任した。
戸田氏栄の経歴から、40歳過ぎまで今の感覚だと史料編纂に参加していた学者が急にワイロの多いとされる幕府の印旛沼工事事業の監視役に抜擢されたと思われる。当時の幕府の財政事情から工事の目付という職は誰もやりたくない仕事だったかもしれない。また同僚となった町奉行鳥居耀蔵の評判から手を挙げる人が少なく、仕方がなく戸田氏栄に目付の役が回ってきたかもしれない。この様に推測できるのだがこの裏事情が解る文献があった。(井関隆子日記)

福神漬の命名に関する経緯を探っているうちに日本史の中で比較的無視されている事実が浮かび上がってくる。戸田伊豆守氏栄はペリー来航時の日本代表の浦賀奉行であったが久里浜での応接では一言も発することも無く、日本史から消えた。当時の老中阿部正弘が異国船対応があると予想される浦賀奉行になぜ戸田を抜擢したのだろうか。今のところ納得いく文献は見当たらない。
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あいまい流通のツケ

2011年05月23日 | 築地市場にて
食品の流通は複雑で特に単品商材で加工してないものだけが表示の義務を負わされる。漬物などは加工品の中では比較的先頭を切って表示しているがこれから進む加工食品は難題が増える事となっている。その中で今まで気にしていなかった放射能という問題が産地とか保管情報まで海外から要求されて、証明方法でまた問題が増えた。
 梅の産地である和歌山県は比較的対応が良く、インボイス番号があれば証明書を県のほうで発行できる所まで来た。
原理原則から言えば全ての食品履歴は明示しなければならないが加工食品においてはコストがかかり過ぎて単価に反映することもできないで来てしまった。日本の農水産物を堂々安全だと輸出するには原理原則を確立するまで時間がかかるだろう。この原則を確立しないで安易に証明書を発行すれば不祥事が判明した時さらに日本ブランドが失墜するだろう。信用を築くには時間がかなり、信用を落とすには時間はいらない。
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築地のイベント無事終わり

2011年05月22日 | 築地市場にて
朝7時過ぎに東京で震度3の地震があったが、無事イベントは終わった。他のところと違って築地市場内は衛生検査所が衛生管理に対して厳しく、他のイベント会場ほど弁当の出る事は無い、食事は本日臨時に開いている食堂で食べてくださいということである。本当に築地でイベントを開催して人を集めるには車を市場内に止めさせねばならない。老朽化した築地では一般客が市場内に入る事は好ましくない。岸壁とかフグの徐毒所など危険がいっぱいある。
 天気の良い築地にツバメの鳴き声が響いている。これから雨という。梅雨の走りかもしれない。
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天保の改革は幕末の始まりか?

2011年05月21日 | 福神漬
妖怪といわれた男鳥居耀蔵 童門冬二著
天保の改革での悪役で有名な鳥居耀蔵を見直した小説だった。天保の改革をしなければならない情勢の中、儒学の懐旧思想を実践すべき幕府上層部に入り込んだ鳥居の活躍を回想という筋立てで当時の状況を小説にしている。同じように文庫本の『鳥居耀蔵』も読んだが彼が今でも悪人となっているのは芝居や読み本等の文化人達が奢侈を増長させていると攻撃したため鳥居の評判が悪く、また江戸消費経済を破壊したため、武士階級の復権どころか武士階級の凋落を促進した政策だったかもしれない。福神漬の調べごとをしていると金銭で下層の武家へ養子に行き、幕末明治の混乱期に活躍した人が目立つ。

 天保の改革で同業者組合の『株仲間解散令』が発動し物価を引き下げる目的だったがかえって江戸では物価高騰をもたらした。しかし浦賀では塩の同業者組合再興で混乱があったようである。歴史では行き過ぎたデフレ政策を施行した政権運用者の評判が悪い。しかし行き過ぎたデフレ政策をもたらしたのはその前に行き過ぎたインフレがあったことである。明治のデフレ政策の時代に福島事件が起こった頃福神漬は命名された。
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5月22日のイベント

2011年05月20日 | 築地市場にて
日曜日に築地市場協会の主催で被災した産地支援のイベントが築地市場内で行われる。震災で落ち込んだのは津波によって引き起こされた災害地域だけでなく、築地市場も風評被害の頂点とも言って良い。年度末の歓送迎会需要が消え、さらに垂れ流しの放射能によって出荷自粛とか制限によって毎日が緊張した仕事となった。
 その上自粛という不景気風が吹きまくり、オーバーな報道で築地市場に来る観光客需要も消えた。あれだけ行列の長かった築地市場内の寿司屋も殆ど行列が無くなった、
 今の状態を打破するため、今回急遽築地市場でイベントが開催される。
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マテマテカ塾

2011年05月19日 | 福神漬
幕末におけるヨ-ロッパ学術受容の一断面-内田五観と高野長英・佐久間象山-
川尻信夫著
内田五観(弥太郎)が文政12年(1828)頃江戸にて和算の塾を開き、マテマテカ塾と名付けた。ここでは従来の和算塾と違うようなものを指向したと思われる。塾を開いた時は内田は23歳頃でまだ高野長英とは面識が無かった。長英のところに入門したのは塾を開いてから2~3年後のことである。内田は高野からさらに新しい海外の数学知識を学ぶための情報を得るため高野に接近したのではないのだろうか。数学や測量知識では既に当時の日本では内田は一流人で高野から学ぶものはなかったと思われる。多くの文献では内田は高野の門人としているが内田が必要だった知識は西洋における理科系の情報を高野から得ようとしたのではないのだろうか。

 川尻信夫氏の本によると明治以降の日本の近代化にとって実用数学が必要とされ、応用数学を蘭学者から得た知識で和算家が改革していたので、比較的に他のアジア諸国よりスムーズに和算から西洋数学にとって変わった。これは幕末和算家の活躍かもしれない。しかし純粋数学を学ぶ明治の人は少なかったという。
 西洋数学の中にあるキリスト教の影響を避けて数学を学ぶことは鎖国していた江戸時代は困難であった。蛮社の獄という事件は今の感覚だと言いがかりとしかいえない口実で西洋の知識を学ぶ人たちを弾圧した事件である。キリスト教を排除することを目的とする鎖国と西洋の学門の後ろにあるキリスト教思想とは蘭学を学ぶほど衝突する事となる。
 内田弥太郎が蛮社の獄で取り締まりのリストに載っていても、幕臣であったため取締りの方針情報を理解していたのではないのかと思われる。また長英が嘉永3年に自決した時も内田の親族である宮野家が廃絶となったが陰で逃亡を手助けしていた内田は何も咎めが無かった。これは高野の脱獄の罪の問題で、獄に入った問題は当時でも既に冤罪と思われていた。しかし長期間逃亡され、さらに江戸市中に潜伏されていては江戸町奉行所のメンツの立たず、逃亡事情を話さないように撲殺したと思われる。嘉永3年の頃は内田は浦賀で戸田氏栄の下で砲術、測量など数学知識を使い働いていた。
 万延元年、内田の学問上の弟子だった花香安精の子(花香恭法)にペリー来航時活躍した戸田伊豆守氏栄の遺児を、恭法に子供がいるのに養子(花香恭次郎)にしたのは何かあったと思われる。
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半値市

2011年05月18日 | 築地市場にて
築地場外市場では18日に半値市を開いた。今度の22日(日曜日)には場内市場で消費者相手の市がある。平日の半値市はヒマな水曜日でもそれなりの混雑だった。しかし以前の勢いのある時の築地場外市場と違って、周囲まで混雑は及んでいなくて警備の人もヒマそうであった。車で築地に来る外国人や観光客が戻るまではまだ時間がかかりそうである。
22日の築地市場内の市は場内には駐車できません。築地場外の駐車場か電車を利用してください。
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節電の促進には

2011年05月17日 | 築地市場にて
電気料金の上がらない節電はイマイチ努力の結果が見えない。特に自社だけ目標値に達していても築地市場全体では節電になっていないことも十分予想される。特に電気消費量の多い冷蔵庫は築地に大量にあるので節電しにくいので専ら蛍光灯などを消すしかないので気分は暗い。
 基本料金から累進的にあげてゆけば節約を促進することが出来るだろう。そして効率のよい200ボルトに変更を促進するほうが将来に対してよい結果を招くだろう。築地市場の100ボルトと200ボルトの単価は同じである。

近所にコンビニがあれば冷蔵庫は要らない。必要な時に買い物に出かければよいのである。そうした工夫が今年の夏は必要となるだろう。
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