年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治45年4月19日東京朝日新聞の記事より

2008年03月31日 | 福神漬
明治45年4月19日東京朝日新聞の記事より
浅田正文氏逝去
日本郵船元取締役浅田正文(せいぶん)氏は薬石効無く神田区鈴木町一の別邸において逝去せり。享年59.
 氏は遠州横須賀西尾家の臣にて明治7年三菱会社会計課に入りしか将来計数に明らかなる人ならば簿記法を応用してよく出納を整理せるは日本において西洋簿記を活用せるは氏をもって嚆矢とする。云々
 前年の10月に病気が発見して治療中であったが10日にすべての役職を辞職し葬儀の手配をして亡くなったという。
死亡記事は次に彼の関係した会社が列記している。日本郵船・明治製糖・加富登ビール・東京建物・神戸電鉄・東洋移民会社等が書いてある。彼の晩年を悩ました帝国商業銀行は記載されていない。明治の5大ビール銘柄で今でも復活していない銘柄はカブトビールだけである。
 葬儀は鶴見・総持寺にて執り行われ喪主浅田正吉氏・葬儀参加者は千名にのぼったという。葬儀の記事では正文(まさぶみ)となっている。
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石川啄木が死んだ頃

2008年03月30日 | 福神漬
石川啄木が死んだ頃
石川啄木が死んだのは明治45年4月13日のことだが偶然この日の前後の事情がわかった。
明治45年4月18日 東京朝日新聞の読んでいると与謝野晶子の啄木の追悼の文があった。この日は浅田正文の死んだ日である。どのような記事があるか調べる途中で見つけた。また同日の記事で続報として4月10日に大西洋で氷山と衝突して沈没した大型客船の記事がほんの数行ある。悲劇のタイタニック号のことで4月21日頃から新聞記事の一面が客船遭難の記事となる。啄木はそんな時代の空白の日に亡くなった。今なら即時報道の時代なので啄木の死は朝日新聞でさえタイタニック号の遭難で死亡記事にする隙間もないだろう。
 なお18日の記事では浅田正文氏危篤として朝日新聞に記載されている。
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池之端御前の末路

2008年03月29日 | 福神漬
池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
 こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
 池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室後が今の横山大観記念館の一部となっている。
 台東区中央図書館の郷土史料のところで大正元年の地籍台帳によると下谷区茅町2丁目15から18までの地主は浅田正文となっている。2-15は120坪、2-16は約137坪、2-17は168坪、2―18は約184坪、合計約609坪となり地価8520円となっている。しかし昭和10年の台帳ではすでに浅田の名義ではなく2-18は分割され2-18-2は横山秀麿(横山大観)の名義となっている。横山大観が茅町に移ったのは明治42年頃なのでいかなる事情が周辺であったのだろうか。
 
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七福神

2008年03月28日 | 福神漬
七福神
七福神を創案したのは上野東叡山の開祖天海大僧正で、駿府に家康公を訪ねた折、家康公は七つの得を具えていると申し上げ、それを悦んだ家康公が狩野探幽に画を描かせたのが七福神誕生の起源であるとされている。
 それが今から200年ほど前から谷中の七福神めぐりが盛んになり、明治に入って戯作者梅亭金鵞によって、七種類の野菜の入っている漬物を福神漬と命名された。
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蓮飯

2008年03月27日 | 福神漬
蓮飯
漬物の福神漬には7種類の野菜の中でハスが入っていますが、これは上野不忍池の付近で創られた影響です。上野寛永寺は今でも江戸の昔でも人々の息抜きの場でした。池の周辺の料理茶屋でハスの料理が名物でした。蓮飯です。
蓮飯とは、蓮の若葉を細かく切ったものを入れて炊き、炊き上がったら別の大きな蓮の葉に包んで蒸らしたもので、蓮の葉に飯が盛られたさまを、蓮華座の上の菩薩に見立てています。
江戸時代末期から明治の初めの混乱で上野周辺は不況となりました。明治政府は上野公園を整備し、博覧会を開き再び人々が上野で遊ぶようになりました。周辺の茶屋や演劇興業は再び繁栄するようになります。その中で新しい醤油と砂糖を加えた漬物が創生され缶詰に入れて販売されました。そして福神漬と命名されました。
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引札

2008年03月26日 | 福神漬
引札
引札は今の言葉で言うとチラシ広告と言うんでしょうか江戸時代から明治にかけて著名な人達が宣伝文を創っていました。福神漬を命名したと言われる梅亭金鵞もその弟子鶯亭金升もまた晩年の福地桜痴も種々の引札に名筆を見せたと言う。(明治世相百話・山本笑月著)福神漬の引札は今でも残っているのでしょうか。
新しい時代に新しい食べ物を紹介するには色々な手段を利用しなければ今でも残れない。福神漬の名付けのいきさつもこの例に当たる。
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ウコン

2008年03月25日 | タクワン
ウコン
夜テレビ通販の番組で『ウコン』を粒状にしていたものを販売していた。ウコンはカレー粉の黄色くしているスパイスで健康にも良いという。さらに乳酸菌を入れてあるという健康食品は結構高い。
 しかし漬物の沢庵を着色している黄色は昔から『ウコン』で色付けしていた。つまり昔ながらのウコンで着色している沢庵漬類は乳酸発酵していて、特に古漬の沢庵は乳酸菌もたっぷり入っていて健康食品を買う必要はない。しかしながら加熱殺菌していない状態のたくわんは今では販売しているところも少なく手に入れにくい。加熱殺菌している沢庵は乳酸菌を殺しているので残念である。自家用の沢庵を賞味すると販売されている沢庵とはっきりと味の違いが分かる。塩分の多い自家用の沢庵と塩分の少ない市販の沢庵。どちらを選ぶかは消費者の判断で今のところ塩分少ないほうが選ばれている。
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伊藤痴遊全集から

2008年03月24日 | 福神漬
伊藤痴遊全集から
明治大正昭和に活躍した講釈師。
伊藤痴遊全集 続第5巻より
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴は明治の20年代までは双福といわれていて福沢諭吉と同じように有名であった。
 さて福地の事跡として新聞業界に誇れるものが三つあげられる。
1 新聞の文章を作った。 江戸時代の読み物と違う新聞用の文章。
2 新聞業界の後進の育成、多くの新聞記者を育てた。
3 西南戦争時の従軍報道。実際に見聞した記事を書く。見もしない戯作者と違う報道姿勢。
しかし桜痴の名前のごとく福地は色を好み、深い仲となった桜路(さくらじ)という妓にちなんで号を桜痴としたといわれるくらいであった。晩年は没落し隣地に住んでいた浅田正分の火除け地として買収されたが、伊藤痴遊は明治10年代にあれだけの家に住むのは容易ではなかった。震災後も依然として福地の家は昔の面影がたもたれていた。
 現在の横山大観記念館は福地桜痴の住居後の一部と隣人の住居後を購入したようである。横山大観の縁者の話では福地の茶室があったという。池之端御前の茶会は鹿鳴館(明治16年から明治23年)と対抗して開かれていた。明治19年に創生された福神漬と池之端をめぐる人々の縁がここに繋がる。
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漬物で海外の貧しい人への援助

2008年03月23日 | 築地市場にて
漬物で海外の貧しい人への援助
あまり知られていないことだが漬物の海外原料は本当に貧しい人達のところで行われている。もちろん正当な報酬を与えないと異物混入の検査によって後で日本で検査費用がかかるので経費節減とならない。とにかく工場は人が多く余程のことでないと日本と違って人間が行う。ただ問題はあるのだが日本でどのような食べ物になるのか知らないので教え込むのに時間がかかる。さらに教えた人が転職するなど悩みが多い。
途上国の工場の衛生管理は昔と違って日本より衛生的であるが基本的慣習が違うので苦労します。また輸送手段が悪くしばしば行方不明となりますが漬物原料は現地で食べないので大抵出てきます。横浜の埠頭で昔は(20年以上前は)露天に置いてありました。盗難がないからです。日本国内の輸送賃と添加物検査費用のほうが漬物原料の価格より高いからです。
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歴史でない明治大正

2008年03月22日 | 宅老のグチ
歴史でない明治大正
明治はまだ歴史の世界でなく生きている人も多く完全に過去とはなっていないので歴史分野の人には質問しても怪訝な顔をされる。今捜索している池之端茅町の土地の所有者の変遷は度重なる火災等で記録が焼失し当時の状況がわからなくなっている。しかし予想もしないところから記録が出てきてまた進むだろう。とりあえず有栖川公園の図書館で史料の捜索。桜はもうじきだろう。去年もここで桜を眺めていた。
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男爵郷誠之助君伝を読む

2008年03月21日 | 福神漬
男爵郷誠之助君伝を読む
郷誠之助は渋沢栄一死去後の第一次大戦後から戦前にかけて日本財界のリーダーとなった人ですが帝国商業銀行の再建や日本醤油醸造の処理には失敗したという。のちに「財界世話業」と呼ばれた郷誠之助は色々な業績不振な会社を再建しました。
 明治41年渋沢栄一や中野武榮の推薦により整理のため帝国商業銀行の会長に就任した。帝商は一般の銀行と違って投機性の強い株式仲買人の金融をする関係銀行であった。さらに日露戦争後産業資本と金融の関係が密接となり小資本では独り立ちは難しくなっていった。また日露戦争後の一時的好況の時に多額の貸し出しが、すぐやってきた恐慌によって貸し出しが焦げ付いた。この貸し出しは馬越恭平でこの融資の失敗問題を追及していたのは浅田正文であった。このため銀行内は馬越派と浅田派に別れ抗争していたが馬越が引き浅田が経営しても帝国商業銀行はたびたび貸し出しが焦げ付く融資が発生し立ち直らなかった。
 郷誠之助がこのような時再建に向った。再建には失敗した後に明治44年東京株式取引所理事長に就任した。帝国商業銀行や日本醤油醸造は福神漬の歴史に関係しているので今後どんな史料が出てくるのでしょうか。
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ギョウザの余波

2008年03月20日 | 築地市場にて
ギョウザの余波
すでに2ヶ月ほど経ったのに農薬ギョウザの余波はやってきていて、どんな状態になるか予想がつかない。国産野菜は徐々に需要のせいで上がってきており何年ぶりかの大変動の予感がする。
 今から二十年以上前10月末に日本に来た台風によって昔ながらの三浦大根が被害を受けの種の蒔き直しが利かない時期のため、関東市場に青首大根が広まった。これと同様なことが中国に起こる気がする。いままで日本の大根を食べていない中国人が大根を食べる食生活が始まるかもしれない。
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予想も当たるとつまらない

2008年03月19日 | 宅老のグチ
予想も当たるとつまらない
予想も当たるとつまらない。外れたときなぜ外れたか考える余地があるが当たると当然のように思えて実際の根拠はなく偶然の仕業であったのに考えることを止めてしまうのが人間の業ともいえる。1バレル100ドル越えも120ドルになるのも予想が当たりそうだし,為替も1ドル95円までなって前回円高になっても100円の壁が越えられなかったのに簡単に越えたのには驚いている。ギョウザ事件も解決しないうちに気がついたら中国元と日本円のレートが大幅に変化していて食料基地としての中国の役目が終わったことになると予想する。今1ドル約7元だが年末には6元に迫るだろう。中国のインフレを抑えるにはこれしかない。
FOMCの大幅利下げによって日本のドル預金の利息がなくなりドルの魅力が減り他の通貨に向うことになる。食べ物だって新しい材料価格体系が完成するまで割安で栄養のある食物が見つけるのが難しい。しかし漬物に関しては大根か白菜系統となるだろう。まだ日本人向けのキャベツの漬物が完成していない。
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漬物はエコ産業

2008年03月18日 | 趣味としての漬物
漬物はエコ産業
漬物はエコ産業だったともいえる。漬物はあまった野菜や産地で暴落した野菜を塩蔵して保存しておき野菜が高騰したとき製品となってきたものである。今は昔の話。いまは鮮度の良い野菜を使う浅漬けが主流である。
 江戸時代は酒や醤油の使用済の空たるを廃棄するのでなく再度漬物用として利用し漬けた物である。また沢庵漬のヌカは米を精米するとき出たものの利用である。なら漬の粕も酒を搾った後の利用である。このような見地から日本食のリサイクルの終点に漬物があるともいえて、食事の最後のほうに香の物(漬物)が出るのも何か象徴している気がする

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新銀行東京問題で

2008年03月17日 | 福神漬
新銀行東京問題で
新銀行東京問題で築地市場の移転はなくなるか
実際問題として築地市場の老朽化は限界まで来ており、回顧趣味の人だけの世界で食品を安価に安心して区分けする機能が消えつつある。
 いつか急に衛生問題で移転が急展開する日までゆっくり準備。浜離宮パークサイドプレイスは約10年近く工事中断して急に建設が始まった。こんなことを考えていたら福神漬歴史関連で帝国商業銀行の経営危機が気になり、中央区の郷土資料室にて「日本銀行史・吉野俊彦著」を借りて読む。川田小一郎の逸話の出所がはっきりしてきた。帝国商業銀行の危機は日露戦争後の不況による株の暴落から始まっている。浅田正文は明治41年まで約22年間日本郵船の役員であったがどうも辞職した理由はまだわからないが帝国商業銀行の経営責任を取らされたのだろう。
 明治時代の役員・取締役は今の経営者と違って無限の責任を負っていたようで責任をとると言うことは全財産を失うことになることを求められていた。ここに浅田の文献がない理由かもしれない。
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