年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

証明書写真機

2012年09月30日 | 築地市場にて

ある国へ行くためビザ用の身分証明書の写真が必要となった。有楽町の交通会館のパスポート申請のところでは1400円かかるが、自動身分証明書写真は700円だった。普段からこの機械の存在は知っていたがプリクラブームが去り稼働率が下がって撤去されたところも多い。記憶でスーパーの遊休地に置いてあることは知っていた。
 あるスーパーに入ったら駐車台数300ほどのところだが1階に2台、駐車場と店舗の間に1台と合計3台あった。これだけの証明写真を撮る需要があるのだろうか。主な需要はパスポート申請と就職活動しか考えられない。3万人が働き、さらにそれ以上の人が築地市場にやってくるが証明書用写真機は1台もなかった気がする。築地市場内に1軒もコンビニはない。
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結局白菜の姿漬は消えるしかないのか

2012年09月29日 | 築地市場にて

北海道で白菜漬による事故で8名の死者が出たことで,衛生基準が厳しくなり、塩素などにより殺菌が義務化されることになる。塩素を加えて殺菌することは簡単だが塩素臭を除去することは難しい。さらに白菜を固まりのまま洗浄することは殺菌効果の出ない部分が生じるので切断してから洗浄することになる。今塩素臭を除去するには大量の水で洗浄するしかない。
 殺菌すると言うことは有用な乳酸菌等も除菌することとなる。つまりこれからは人工的な乳酸菌を添加することで自然の風味を出すこととなる。昔の味を出すには規制のかからない家庭で白菜を漬けるしかない。
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観光客だらけ

2012年09月28日 | 築地市場にて

大江戸線築地市場の出口の歩道は9時過ぎると観光客のたまり場となる。昨日はロシア、韓国、台湾、香港と少しの中国人、さらにホテルで宿泊している各国の人たちが行く先がバラバラで歩道の混雑を増やしている。
 国の内外のゴタゴタも築地は無縁のようだ。何しろ食料自給率40%の国には海外から業界視察旅行は国の日本行き規制も無視することとなる。リスクあるところに高リターンがある。
 10月に中国から日本に視察に来る漬物メーカーがある。新聞は騒ぎすぎ。中国人から見ると空いているので飛行機代が安い。慣れて経費で落ちる中国人は今は日本に来るいい機会かもしれない。
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清水次郎長と幕末維新

2012年09月27日 | 福神漬
清水次郎長と幕末維新-『東海遊侠伝』の世界
高橋敏著
この本に出会ったのが福島県郡山市中央図書館の郷土資料のところだった。清水の次郎長がなぜ郡山で郷土資料なのかと違和感があった。清水の次郎長を明治日本に送り出したのが福島県いわきの天田愚庵だった。
 戊辰戦争の混乱で両親と妹とを見失い、彼らを探す人生が始まった。彼の両親を探す行動に周囲の人の援助で人縁が増え、さらに彼の行動が活発となった。郷里の人縁から東京へ向かい、そこで山岡鉄舟と知り合い、清水の次郎長と知り合い、養子となった。この辺の事情は山岡ファン、次郎長ファンに任せていたがそこに天田愚庵と明治17年と言う時期が重なると福神漬の命名時期と重なり、急に気になる存在となった。次郎長が賭博開帳の罪で投獄されたのは地方の自由民権運動を暴力で支えていたのが博徒集団であったためだった。
 『東海遊侠伝』出版後明治19年頃から天田はジャーナリズムの世界の人と交友が増え、陸羯南、正岡子規、子規の門人等と交友するようになった。山岡、陸、正岡は上野周辺で福神漬創製地でもあった。この本ではさらに自由民権運動静岡事件の広瀬重雄が加わる。
 福神漬を調べる過程で思わぬ展開となるのは不思議なことである。
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白小梅と新横綱

2012年09月26日 | 築地市場にて
24日昼まえ日本相撲協会から電話がかかってきた。生の小梅を探しているという。9月という時期からどうやら何箇所に尋ねてもないと言うことだった。結局漬物の小梅を使うこととなったのだが在庫としておいてある築地の場外市場の店を2件ほど紹介して終わった。もし在庫がなければ翌日着で手配するということで話は終わった。築地の各店舗は食のスペシャリストが揃っていて眺めていても飽きない。その後電話がかかってこないので多分築地場外市場の漬物屋で白小梅を手に入れることが出来たのだろう。
 あとで気がついたのだがなぜ急いでいただろう。その日午前新横綱が誕生の運びとなった。行事で小梅を使うと言う。何か関係があるのだろうか。相撲の儀式は神道の儀式に似ている。
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カゼ

2012年09月25日 | 築地市場にて
彼岸からの急激な気温低下でカゼらしきものを患いました。熱は下がったがまだ体調不調のまま月末の仕事をこなす。一応9月末は半期末ということで契約更新とかの業務で仕事の予定が詰まっている。今年は昨年と違って、経費の根拠となるものの見直しと先に進むための検討が入った。時間の進むスピードが早く、非連続性の進歩のため、あっという間に優良企業が倒産まで行ってしまう。
絶不調で仕事をしても、ろくな仕事もできないことを感じる。このまま医者で点滴を打ってもらうことになるのだろか。明日は休市のため、助かる。
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技術の伝承

2012年09月24日 | 築地市場にて

平成25年は伊勢神宮の式年遷宮とかで伊勢地方は観光客で混んでいるという。20年毎に建物を建て替えることは建築技術の伝承という面がある。漬物において技術の伝承といっても、大量に集荷された野菜をどのように漬けこんだら荷痛みしないで漬けこむことができるかの問題となる。漬け込み初期には余裕のある作業が続くが休日とか雨天が入ると野菜の入荷が不安定となる。この時野菜の状況と漬け込み労働者の疲労状況を見て、簡便な作業を選択することとなる。
 なら漬の漬け込みで原料の白瓜が山積みした為、白瓜が発熱して痛みだすことがある。この時が塩漬けにした後、下粕で漬け込むことをしていた記憶がある。50年ほど前の話である。下粕とは酒粕に塩が大量に含まれて入れ,瓜の水分を取り去る目的がある。今は最初から塩漬にしてからなら漬を作っているが漬け込みネットの傷や瓜の形を保つためには下粕を使った漬け込みの方が見栄えは良い。価格のことを考えたら塩漬けから始まるのは仕方がないかもしれない。
 この様な昔の技術は発展途上国で新規に漬け込むとき過去の技術が役に立つ。フォークリフトやクレーンのない工場では漬け込みネットは使うことができない。
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松亭金水まで来た

2012年09月23日 | 福神漬

今棚橋先生の本『捏造されたヒーロー、遠山金四郎』を読んでいる。天保の改革の中で江戸北町奉行だった遠山の金さんは出版弾圧を行ったようである。天保12年為永春水は手鎖の刑となった。この改革で処分された人情本の中に松亭金水と梅亭金鵞が居た。嘉永元年頃梅亭金鵞が松亭金水に弟子入り戯作の筆耕をしていたというが天保13年に出版禁止となっている。娘七草「処女七草」六編七編 梅亭金鵞作 天保13年刊 初編から五編まで松亭金水作。
天保の時期の出版弾圧と明治の10年代の出版弾圧とはどう違っていたのだろうか。
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一気に寒くなって

2012年09月22日 | 築地市場にて

つい昨日まで30度を越していて、今年はどうなってしまったのかと思うと急に26度まで下がり明日は23度という予報となっている。昨日は外が暑いので築地もアスファルトの照り返しで暑かった。休市の今日は朝から観光客がうろうろしている。香港台湾系の人たちが来ているのだろうか。
 恵まれた天候のため白菜価格は出荷制限し、さらに廃棄処分しても相場が上がらず、改めて漬物需要が白菜価格に影響を与えることが認知されただろう。一説によると鍋需要が出るまで白菜価格は上昇しないという。気温が下がれば鍋を食べたい気も起るだろうから、もう少しの辛抱かもしれない。
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近代漫画の前は

2012年09月21日 | 福神漬

福神漬の命名者だった梅亭金鵞は明治マンが雑誌團團珍聞の編集者であった。彼の経歴から日本のマンガの歴史を調べると平安時代の『鳥獣人物戯画』からいきなり明治マンガに行ってしまう日本マンガ史が多い。この間のマンガに関する文献は中々見つからない。
 團團珍聞の團とは○○ということを表わしていて伏字であることを示していた。読者は伏字の意味を推量して楽しんでいた。この○○と言う伏字は江戸時代の好色本の禁止から工夫されたものである。江戸時代の子供向けの本の価格は今の物価に換算して100円強の値段だった。(山東京伝の黄表紙を読む. 棚橋正博著)
 寛政の洒落本筆禍かから武士出身の作者は消え、町人出身の山東京伝が作風を変え、教訓黄表紙に作家としての活路を求めた。と同時に人口が急増していた江戸の娯楽として黄表紙が受け入られることとなった。子供用の絵本から発展した黄表紙は次第にマンガ(絵付き草双紙)として発展してゆくようになっていった。黄表紙文学の興隆と町人経済の発展による人口の増大が出版文化の興隆をもたらしたと棚橋氏は書いている。子供向けの本から始まった黄表紙は子供の成長と共に読者層の要求に応えるように黄表紙も大人向けの絵付き草双紙となってゆくのは必然である。これは戦後の小年マンガが次第に大人も読み応えのあるストーリーマンガに変化したと似ている。(197頁)

棚橋先生の本は読めば読むほど文学から見た江戸時代政治経済の解説本と感じる。
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べったら市の謎が一つ解けた

2012年09月20日 | べったら市

棚橋正博先生の本を読んでいたら、べったら市を調べていたとき不明だった『藤問屋』が大伝馬町、小伝馬町付近にあった理由が判った。
 中央区日本橋本町は薬関係の会社が多い。これは江戸時代薬種商が中心地である本町付近に集まったからである。当初は薬種商が砂糖をついでに商っていたが次第に砂糖の扱い量が増え、隣地のところに砂糖を扱う問屋が増えた。
 江戸時代の日本産の砂糖は少なく輸入された砂糖は南方アジア、台湾から船に積まれてきた。船を安定させるため藤製の籠に入れられて日本に運ばれた。籠入りのまま長崎で検量され、大坂を経由し江戸に届いた。砂糖を入れた藤製の籠は水桶の中で踏みつけると中にしみこんだ砂糖分が押し出され、煮詰められ水あめ等になったと言う。残った容器の藤製の籠は藤細工の素材として利用されたようだ。つまり『藤問屋』は本町付近にあった砂糖を扱う商人から出る廃棄物再生事業でもあった。江戸時代は帆船の時代で船のバランスをとるため重いものを積み込む必要があった。しかし明治になって石炭が積み込むようになれば藤製の籠は不必要となり、廃棄物が出なくなる。明治の中頃には大伝馬町界隈から藤問屋が消えた理由だと思われる。(山東京伝の黄表紙を読む223頁)
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暑さ寒さも彼岸まで

2012年09月19日 | 築地市場にて

東京は台風16号の余波で雨が降っている。これほど雨が期待されていたことは最近ではない。東京都の貯水率が50%を割って騒いでいたのは1週間ほど前だった。国周辺の騒動ですっかり忘れていたが天気は確実に秋となっている。今年の秋の果物は出来もよく、品質も良い。東京都から請求が来た8月の電気料金も気の緩みか今年が暑かったのか支払う電気代が多い。
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付会かも

2012年09月18日 | 福神漬

棚橋正博さんの『山東京伝の黄表紙を読む』を借り出した。中央区では郷土史料と言うことになる。
 この本の中に『付会』と言う言葉があった。コジツケという意味である。福神漬の命名をした梅亭金鵞は武士出身の戯作者であった。この戯作者という仕事は今の感覚の小説家とも違う存在で中々理解はしにくい。特に江戸時代ということで文学系のことは研究も役に立ちそうでなく大学の中でも肩身が狭そうである。文学と経済と言うことを本気で考えている人で少なくとも福神漬から明治10年代の日本を調べている身から見ると同じ視点の人が居たということである。幕末から明治にかけて旧幕臣の人で風刺漫画雑誌の團團珍聞の梅亭金鵞が何も考えず命名したとは思えない。
 何を付会したのだろうか?
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安積開拓官舎-旧立岩一郎邸

2012年09月17日 | 築地市場にて

震災で被災していた郡山市開成館を訪ねる。まだ10時前だったが館内の人頼んで入れてもらい、暑いので中のベンチに座って時間を過ごす。今見学できるのは安積開拓官舎と開拓民小屋で特に開拓民の小屋は時代が不明だが実に粗末な家だ。この様な小屋が大正時代まで続いていたのだろうか。久米正雄のことは郡山のことが気になるまで知らなかった。彼もやはり三島通庸の影響を受けた人だった。父が不慮の死を遂げ、郡山で少年時代を過ごした。久米の母は立岩一郎の娘だった。
 石井研堂が少年時代に通った郡山市立金透小学校と石井の菩提寺、如宝寺,安積疎水工事とかの位置関係が書物から出て、立体的に感じることができた。石井の心の中にある福島はどうだったのだろうか?大久保利通の暗殺で一時は安積疎水事業は危機を迎えたが郡山商人の力で明治15年8月試験通水、翌16年6月灌漑事業を始める。この明治15年頃から福島県政界は県令三島通庸と福島県自由党との衝突が激しくなっていた時期った。当時の郡山市民は大規模な土木工事で潤っていて、どちらかといえば明治政府寄りだったという。

今年の少雨も疎水があるので郡山の田んぼは心配ないだろう。郡山は少雨の地域という。

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深夜の渋滞

2012年09月16日 | 宅老のグチ

福島県郡山に行くことになって結局車で行くことになった。夜11時過ぎ浦和を出たところで那須-矢吹インターチェンジ(IC)間で渋滞3キロと言う。途中で仮眠を取り2時過ぎ塩原付近に行くと渋滞が15キロとなっていた。何故か不明なので仕方がなく那須で高速を降りてしたを行く。
 東京への帰路でようやく工事理由が判った。震災でうけた道路破損を修復していたのだった。郡山市内のいたるとところで修復工事の様子が見える。もう1年半経っているが体育館等の工事はようやく始まったようだ。郡山の開拓の歴史を展示している開成館本館は11月まで修復工事をしていると言う。
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