年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ニ-ト入り一か月

2019年07月31日 | 宅老のグチ

豊洲から離れて1っ月経った。雨天続きの6月ということで外出が少なめ。傘を収納するカバンが小さいため、億劫となる。カバンが小さいのは図書館に持ち込み可能な大きさのためである。一つに決められた用は医者通いの車の運転者。

 もともと退社を5年ほど前から口にしていたが豊洲移転のゴタゴタで遅れた。後時間がどのくらいあるかわからないが週4外出3が引きこもりかな。

 シルバ-シートに気にしないで座るということになってしまった。住民税を払っているので、シルバ-

パスを使う抵抗はない。

 

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市川市の図書館へ無料の交通費で

2019年07月29日 | 宅老のグチ

千葉県市川市の中央図書館は都立中央図書館より設備が良く、快適である。さらに空いているのでまた良い。シルバ-パスの利用可能な都営新宿線は本八幡まで使える。さらにJR本八幡駅北口のバスタ-ミナルからコルトンプラザまでの無料のバスがある。そこから歩いて2分ほどで市川市図書館となる。塩関係の文献を見るにはたばこと塩の博物館だが閉架の書庫で調べる書籍が決まっていないと不便である。小田原の塩事業センタ-の書庫は好きなように触れた。最もここまで塩関係の本を探すもの好きは学者しかいないだろう。駅からかなり離れた研究所だ。もし海水から金が安価に分離できたらすごい研究となる。

 市川で目的の本は見つからなかったが次は東西線の行徳の図書館で現地の情報を収集するするしかない。ステラの市長の市川は今市役所を新築中。

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薩長参り

2019年07月28日 | 福神漬

千葉県市川市の地域図書館で郷土資料を読んでいた。明治元年市川市付近で旧幕府軍と戦闘があった。市川行徳は塩産業で幕府の保護を受けていたので心情的には幕府応援だった。ところが旧幕府軍があっけなく敗走すると町の人たちが新政府軍の陣屋を訪問し、協力を表明したようだ。これが薩長参りと言われる理由であった。町の人たちの裏切りで、幕府への納品で市川市伊勢宿の漬物商人が失望し、浦賀与力だった中島三郎助の一行に従い、北海道に行ったと想像できる。しかし明治に入って敗軍の人たちへの弾圧で語ることもなく消えていった。記録として残るには石井研堂の明治事物起源である。節操のない市川の人たちの当てつけかもしれない。

 前回調べてから、10年の月日が経っている。やっと築地の業務から解放され、漬物史に専念できるので事実確認のため市川に行ってみたい。市川の塩業は過酷な仕事であったようで幕府の保護のない、明治以降は次第にすたれ、衰え、今では地名として残る。

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中島三郎助と水戸藩との関係の文献先

2019年07月27日 | 福神漬

やっと見つけた浦賀奉行所与力と水戸藩との関係文書だったが文献の出所が不明で、横須賀市中央図書館郷土資料室で探す。一時間ほどで中島三郎助関係文書だろうと読んでいたがなかった。念のため附冊のところを見ていたらあった。21頁。芳子聞書き・覚書 中島芳子文

 このあと中島三郎助と水戸藩の関係は静岡県戸田のロシア船建造から石川島の水戸藩造船所へ戸田で洋式帆船を作った大工がは派遣された。浦賀で見様見まねで洋式帆船を作っていた浦賀の知見を知りたかったようだ。開国派の中島と攘夷の水戸だが国を守るということでは共通の問題だった。今文献を見ていると浦賀の人(中島三郎助・下曽根金三郎・内田弥太郎)たちは情報を隠すということを考えていないで徳川ということより日本ということを考えていたようだ。

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やっと記録がみつかったが

2019年07月26日 | 福神漬

 

過去の記録を整理していた、ほしいものがあった。ただどこの記録か不明なので出典を探さねば。

 

西浦賀塩取り扱いについて

庶民生活の基本たる必需品として,米、塩、油あり、これを三役とよび、禁制品として、巷間売買を許されなかった。(米は浦賀で集散、塩、油は浦賀を素通り。)江戸に在貨豊富なれば相場暴落、産地品少なかれば暴騰す。この均衡をとるため海関にて統制する。海関、下田より浦賀に移転当時、東浦賀では干鰯肥料の専売を扱い、房総一円からの出荷を集め、大干鰯倉庫として二町余の大倉庫を建て、肥料供給の全権を握って莫大の利益をあげ、全町大いに富んでいた。しかるに西浦賀はこの恩恵を受けず,依然疲弊のため東西合併を願い、訴訟沙汰となりしことあり。ゆえに禁制の塩を西浦賀の扱いとして許可あれば全町潤うとして太田又四郎、白井儀兵衛、より中島三郎助へ懇請、三郎助、水戸公の知遇を受けおりしをもって、水戸公に願いで、目の下三尺の鯛を大盥(たらい)台に泳がせて、浦賀より海路芝浦に揚げ、水府館(後楽園)に献上の事ありしと。この請願、水戸公の容る所となりて、幕府の許可を受く。三郎助、白井儀兵衛を帯同、水府館に伺候す。白井より種々結構の献上ありしを公悦ばれ、時服(紋付お羽織)拝領、このお羽織月星のお替文なりしを以て、後白井は持ち船の旗印にこの月星を用ふ。これより西浦賀にて塩専売を扱う。安房、上総、伊豆、相模、鈴鹿より甲州までの塩を集散、問屋十五軒共同扱い、船に水戸御用の旗を立て積み出す。扱い高一日に二千俵なりしと。これにより西浦賀町民生色あり。利潤少なからず、資産を積む。ひとへに三郎助の恩沢として感謝厚し。明治二十四年、三郎助父子二十三回忌を期して、金品労力の寄進を惜しまず、白井儀兵衛はその持ち船にて仙台塩釜神社より碑石を運び、そのほか津々浦々の木々を集め植えたりと。

 

浦賀と水戸藩と行徳の関係

積極開国の中島三郎助と攘夷の水戸公との関係の始まり。ここに静岡県沼津市戸田が関係する。

 

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梅雨開けが近いのに

2019年07月24日 | 宅老のグチ

梅雨明けが近いのに、気分が晴れない。日韓の関係悪化が漬物ことを知らない両国のマスコミと政治家の暴言でどうなるか不安である。築地の移転問題で最後にほぼ全員が知っていて、暗黙の同意で外部に話さないことになっていたのが最後に漏れて大騒ぎとなった。いまさらという感じであったが、今でも旧築地の市場に住み着いたネズミは行へ不明となっている。豊洲へ移動した形跡がないので誰も知らない。しかし築地市場の外の不安が数字の減少となっているかもしれない。できるだけ解決できない問題は取り上げないほうが良い。解決の見込みをつけて取り上げたい。実際問題としてネズミの問題はどこでも起こりうるし、そのことによって駆除業者が成り立っている。築地市場はイカリ消毒さんが頑張って駆除したのだろうか。噂は消えつつある。

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夏休みのたばこと塩の博物館

2019年07月21日 | 宅老のグチ

たばこと塩の博物館は年に一番混む季節となったようだ。自由研究の子供たちが館内をめぐっている。4階の図書室で資料さがし。嘉永4年の塩などの株仲間再興状況の文献を探す。

大日本塩業大系近世編〈稿)近世における塩流通338-346

千葉行徳の地回り塩問屋は塩とともに醤油を輸送していたようだ。これで福神漬が最初から塩漬にならなかった理由が説明できる。なら漬けは酒造業者から、味噌漬けは味噌製造者から作られていることが多い。試作しやすいのである。今日はコピ-したものから原稿書き。

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公選法と漬物

2019年07月20日 | 宅老のグチ

産経新聞の記事で公選法では、選挙事務所で出していいのは「茶菓」に限定されている。茶菓とは文字通り、お茶や菓子のこと。お茶うけの漬物や茶菓に含まれるとみられるとある。政治の世界で漬物の扱いは供応の扱いとならないものだろうか。

 選挙も今日で終わる。韓国情勢の景況もチョットはありそう。でも長い間の未解決ですでにスポット対応となっているので関係なし。それでも気になるのは梅雨開けがいつかということ。

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驥尾団子(きびだんご)

2019年07月19日 | 宅老のグチ

久しぶりに町田の自由民権資料館へ行った。ここには多くの自由民権運動の史料がある。ついでに明治の政治資料も多くある。前に訪問した時は無かった団団珍聞も入ったようだ。

 目的は福島事件の宮城県出身の佐藤清が福島事件に関する役割を知りたかった。東京での高等法院(今の最高裁判所)で審議された政府転覆の構想が佐藤清氏から始まったようだ。一時佐藤によって起案され書面となったがすぐに廃棄したものを潜入していた密偵によって証拠とされ、花香恭次郎が拷問され自供したようだ。

 この妄想なような盟約書をめぐって裁判となったが、東京での審理で徹夜の傍聴人が現れ、地方の権力闘争の新聞報道が過熱化した。判決後福島では民権運動が下火となったが逆に自由民権運動左派は過激となってテロ行為を行う方向となった。政府は対策として福島事件以後、政治犯罪から資金稼ぎの強盗等の犯罪で起訴するようになった。

驥尾団子や団団珍聞にいた鶯亭金升が花香恭次郎のことをあっさり記述しているのは当時の東京と福島の景気の差であっただろう。

 今選挙が行われているが国会開設や明治の選挙でどれだけの明治の人たちが死んだか今の人たちは知らない。

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地租改正が無縁でなかった

2019年07月18日 | 宅老のグチ

明治の初めに政府が日本全国の測量をして土地所有者を決めた。これの後技術の進歩でデジタル化するため日本全国で地籍調査が行われすでに50%近く済んでいるという。しかしこの前参加した地域ではすでに終わったのが30%くらいでまだ数年かかりそうだ。土地境界は当事者全員の確認が必要で都合が悪いと所有者不明の土地となり周囲の所有者に迷惑をかけるという。

 六本木の土地開発で地籍調査だけでも4年かかったという。裁判所の公示で認定するよう法律ができそうだ。築地で色々な法律を知ったがこれからも関わり合いが増えることもあるだろう。

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農産物の輸出

2019年07月17日 | 宅老のグチ

日本政府が今必死に国産食品の輸出を増やそうとしている。過去40年以上、漬物の輸出に参加したが量の少ない食品は扱いが難しい。最初は日本人の移住者向けの輸出から始まり、拡大してゆくと現地の製造となる。つまり現地の需要が少なければ輸出が増える。需要が増えれば輸送費、輸送にかかる日数の対応で現地製造となる。これは日本に滞在している外国人向けの食品の拡大と同じである。つまり普遍化しない食品は需要と輸送日数と為替の問題となる。

 従って安価な食品の輸出はブランド力がないと現地製造に代わってしまう。いま海外で寿司が普通に食べることができるが甘酢生姜〈ガリ)は寿司ブ-ムがアメリカで始まるまで日本からコンテナで出していた。今はアメリカでガリは製造されているし、安価なガリは中国から直接アメリカに輸出されている。中国は農産物で有数の生産国である。ただ農家の所得が少なく、昔の日本と同様に都市に出稼ぎに行かないと生計が成り立たない。農産物の輸出ということで貴重な税金が消えてゆく。国内の農産物のブランド化で日本で食事をする方法に行かないと為替て消えることもある。日本の缶詰は円高で打撃を受けた。世界では缶詰は安い保存食である。

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明治文学の根岸党

2019年07月16日 | 宅老のグチ

宮城県伊具郡丸森町へ行った後、佐藤清の経歴を探っていると、今では消えた原払一庵という人物が出てきた。この人は二本松藩士の生まれで、幼い時福島の原家に養子となった。住んでいたところの前で福島自由新聞が発行していたので、散文を新聞に載せたので、一時逮捕されたが未成年ということで釈放された。その後東京に原が上京し、根岸に住んでいた文化人との交友があったようだ。その手引きとなったのが高橋太華で高橋も二本松の藩士の子孫だった。明治26年ごろ、宮城県丸森の大張地区の佐藤清氏の推薦で仙台自由党の機関誌の主筆として活躍したが、すぐに廃刊となり、再び東京に戻り翻訳小説を書いていたが酒におぼれ死去した。根岸党は酒を飲んで交友するので不幸な死を招いた人が多いようだ。

 根岸党の酒のつまみとして、福神漬が文献に残る。

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本物の木製大砲

2019年07月14日 | 宅老のグチ

宮城県伊具郡丸森町の斎理屋敷というところで、蔵の中に展示しているもので文献では知っていた木製の大砲があった。蔵に入ったときはエジプトのツタンカ-メンの棺桶のような形でなら漬けの瓜のようにくり抜いてあった。隅に10センチくらいのボールがあって、説明書きに戊辰戦争の時、仙台藩と官軍の戦いのとき、この付近で激戦があって仙台藩の使用したのが木製の大砲だった。これでは仙台藩が勝つ見込みはないだろう。どうやら一発は撃ったようだ。飛距離もないからモンゴル来襲時の脅しの役目と同様の効果しかなかったと思われる。

 ぺり-が浦賀にやってきたとき、偽の大砲のようなものを見ている。文献にあるもので実物を見て触れるのはまだ価値が丸森町の人たちが知らないのだろう。金属性の大砲は日本各地で見かける。

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宮城県伊具郡丸森町へ行ってみて。

2019年07月13日 | 宅老のグチ

過日丸森町へ行った。晴れを狙っていったので目的は果たせなかったが丸森町の中を阿武隈急行の駅で借りた自転車で町内散策した。主要な目的地は電動自転車が必要でなかった。今の消える街とはどのようなのかは実感した。

 町内の図書館で郷土資料を探すがないので県立伊具高校へ向かう。しかし伊具高校の70年史には記録がない。さらに伊具高校は女子高校と農業蚕糸系の学校との統合で明治の学校以前の記録もないようだ。

 丸森町の蔵の郷土資料館(斎理屋敷)でいろいろ事情を聴く。そもそも江戸時代から福島から阿武隈川に沿って蚕の産地だったようだ。そして河川による舟運が盛んで福島から丸森町まで小舟で運ばれたものがこの付近で積み替えてより多く積める舟に積み替えるところだったようだ。明治に入って鉄道建設の話がきたが、蚕の餌となる桑に鉄道の煙がつくという懸念で反対運動があり、今の東北本線のルートから離れてしまった。さらに高速道路からも離れているようだ。丸森町に漬物屋があって、梅干しとしそ巻きラッキョウを作っていた。梅干しは地元の梅で品種は白加賀という。後で聞きそこなったが桑の代わりに植えたのだろうか。

 明治期は生糸で栄えた町が生糸の不況で衰退したようだ。戦後は大陸からの引き揚げ者の開拓でミルクが産業となったようだがこれも消えた。何にもない街だが帰りの阿武隈急行車内で何か夢がありそうな町かもしれないと感じた。午後3時に電車に乗り6時に東京についた。夕方の満員電車で午前のほぼ無人のあぶ急の電車内で女性の車掌が切符の確認で走りまわっていたとの差を感じる。東京で800円の電車賃ではかなり遠くまで行けるが客の少ない電車は割高だ。悪循環。

 あと少しで江戸時代後期から昭和25年まで栄えた商人の屋敷が歴史遺産となってゆくだろう。触れる資料があるのはまだ誰も価値を知らないようだ。未整理の史料を解明すれば佐藤清が明治の第六回衆議員選挙で当選し、第七回選挙の時に消えていた理由がわかるだろう。

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佐藤清 第六回衆議員選挙・明治31年

2019年07月12日 | 福神漬

佐藤清の経歴を探るため宮城県伊具郡丸森町へ行く。

 町の歴史記録で第六回衆議員選挙の宮城二区で当選している。任期は1898年(明治31年)から1902年(明治35年)満期解散

この第六回衆議員選挙の選挙人は全国で50万人、投票率は80%弱第五回選挙より数%ほど落ちているという。ただ第七回衆議員選挙では名前がない。ということは任期中にあまり実績がなかったのだろうか。丸森町の大張・川張地区の支援があったと思われるが主力の支援者は蚕糸業関係だろう。この件で金山にあった東北地区にあった先進生糸工場から調べないと記録は出ないだろう。

 丸森町の中心部に仙台銀行丸森支店のところに7月22日から隣の町の角田支店に移転するという張紙があった。角田支店内に同居するので振り込みなどは徐々に統合するようだ。こんなとろろで金融機関のリストラ状況を見るとは。地方の活性化は東京での感覚とずれている。ただ元気なのは高齢者と女性かもしれない。参議院選挙でもポスターは2枚しか張っていない。何人立候補しているのだろうか。

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