年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

川崎市中原図書館で

2019年08月31日 | 宅老のグチ

ヘダ号の建造 戸田村教育委員会(1979・昭和54年出版)

 昭和59年に開館した、沼津市の歴史に関する史料を収集・保存・調査・展示している明治史料館図書室でこの本を出して読んでいた。安政の大地震で破損したロシア船をロシアの船員と戸田の舟大工を中心とした人たちによって外洋航海に耐える木造船を建造した。その中で上田寅吉という人の子孫が川崎市中原区今井西町722番地に住んでいたようだ。多分住んではいないと思うが念のため、川崎市の武蔵小杉駅に隣接する高層マンションの中にある図書館郷土資料のところで中原区の古い地図で探す。昭和33年の地図では今井西町は330番地位が見つかるがそれ以上は無かった。昭和の50年台の地図でようやく722番地を見つけた。三菱商事(株)の武蔵小杉住宅で8棟あった。第7棟に722番地があった。個人情報の保護の緩い時代だが求める人物は多分社宅で転勤の多い職場で記録は消えただろう。昭和の33年の地図では三菱商事の社宅の前は法政大学の野球グランド跡地だった。昭和40年の地図では三菱商事の社宅は4棟記載されていて、昭和42年には8棟記載されている。従ってこの42年から50年台初めの間にここに住んでいたのだろう。記録から咸臨丸関係者の会合に参加しているようだ。今は722番地のある所はレシオン武蔵小杉というマンション(1995年分譲)になっていた。武蔵小杉の駅から13から15分の距離となる。

 長々と書いたが三菱という名前が出てきた。福神漬はやはり三菱が出てくる。何かがありそうだが決定的なのが見つからない。記憶があるが記録が見つからない。三菱Gと福神漬の関係は日本郵船のところでカレ-ライスとの関係で記録がないが記憶があると書いた。気になる関係しかなかったかもしれない。

上田寅吉は函館戦争に参加していた。どこかで中島三郎助と接点があったと思われる。

 

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山梨県山中湖村の図書館

2019年08月30日 | 宅老のグチ

山中湖情報創造館は、山中湖村の公共図書館です。犬が入れる喫茶店で図書館情報を得ていったが三島由紀夫と徳富蘇峰の記念館の案内が大きく見落とした。図書館の駐車場には電動自動車の電源があった。

 色々なところの図書館へ行って、郷土資料のところで本を眺める。山中湖では三島と徳富の本と山関係の本(写真集を含む)が多かった。三浦環の本があった。ここにオペラ歌手の本があるとは。時間があったので理由を調べていたら、この付近に別荘があって富士山麓の演習地での現地の人と米軍とのトラブルに活躍したようだ。入会権問題で裁判があったことを記憶する。物資が少なく、米軍の砲弾を回収して売っていた時代を思い出した。まだ日本が貧しい時代だった。

 山中湖村の図書館で電気自動車の充電時間で、湖の見える机で山の写真を見ながら時間を過ごす贅沢な風景を想像した。帰りに一台充電中だった。

 

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犬と泊まれるところで

2019年08月29日 | 宅老のグチ

山中湖にある犬と泊まれるホテルに行った。東京では街中で散歩中に他の犬が来ると吠えるのに、割とマナ-が良く、室内で吠えることもなくさらに尿とかフンの問題も起こさなかった。さらに驚いたのは大型犬とリ-ドなしでも怯えたり吠えることもなく、ドックランや食事場所でもおとなしい。かえって、他の犬が吠えているとマナ-が悪いといったような表情で見ている。

こんな駄犬も家に帰ると時々油断すると噛みつかれる。

 御殿場の神山復生病院を10年ぶりに訪問する。もらったパンフレットにはまだ2016年には5人のハンセン氏元患者が生活しているようだ。ナイチィンゲ-ル賞をもらった井深八重さんのことを聞く。同志社女子を卒業後、ハンセン氏病の疑いで親族から戸籍を抹消されたことを聞くと、どうやら戸籍は結婚離脱でなく、強制的に新規の戸籍を創らせられたようだ。この強権を発動した親族は有名なキリスト教の指導者である。今年の参議院選挙中にハンセン氏病患者・遺族への補償で裁判打ち切りの報道があった。福神漬を調べていると思わぬことが次々と起こる。

 なお井深八重さんはハンセン氏病が誤診で結局神山復生病院で看護婦として働き、一生を終わる。

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一日の始まりは病院予定

2019年08月27日 | 宅老のグチ

一日の始まりは家族と親と犬の病院予定から。一応カレンダ-には予定が書いてあるが、当日の健康状態で日程が変わる。優先順位があるがこれもすぐに変更となる。これの繰り返し。そこで隙間を作って遊びの計画をするようになる。さらに天候を考慮すると結構隙間が消える。

この間つけもの史の調査プランを立てる。今のところ行きたいところは南伊勢市、知多市、大垣市などがすぐに浮かぶが日にちが少ないので東京である程度調べて行ってから現地で確認となる。

 名古屋の本草学から長野飯田市へも行ってみたいが2泊はそれぞれ必要なので日程が厳しい。

運転技術の劣化が進む。一時返納も考えるようになった。

 

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8・25の飲酒運転事故13年

2019年08月26日 | 宅老のグチ

もう13年もたってしまったのか福岡の飲酒運転事故。当時築地市場でたらたらと築地市場の移転問題の会議の傍聴をしていた。この会議も13年前の以前から続いている会議でなかなか進まず時間の区切りをつけたい東京都となんとか有利な条件を引き出したい青果側との果てしないやり取りが続いていた。細かな業務のことは東京都側が知らないので、法と前例にかかわることがあるとすぐに次回となって予定していた2時間が終わってしまった記憶が残っている。

 もめていたのは物流とか温度管理とかはもう少し後で今から思い出すがなぜか13年前の記憶が薄い。

13年前、2016年のオリンピック開催地に日本では福岡と東京が立候補していた。大方の予想では東京一局集中を懸念していて、まえ評判では僅差で福岡の勝ちと予想されていた。ところが8月25日夜の福岡市職員の飲酒運転事故で子供が3人水死し、福岡は最後の国内運動を中断しなければならなかった。その間隙をついて東京都が努力し、僅差で2016の日本の開催地となった。この国内予選が勝利した後、築地市場の移転会議の真剣さの変化は今でも思い出す。不定期だった会議も毎月の定例となり、次々と施設設計に関する事項が進んだ。

 

結局2016はリオに招致が負けたが、何とか築地市場を動かしたい東京都がオリンピックという御旗があれば難癖をつける築地市場の人たちが動くということを知られてしまった。

結果は小池知事の登場でも築地再建設はできず、豊洲断念もできず、ただ先送りで豊洲へ行った。あの2年は何だったのだろうか。今でも豊洲の地下の汚染は残っているが誰も食材の汚染追及する人もなく、あれほど日本に厳しい韓国政府も福島があっても、豊洲に言及することもなく今に至る。

 

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麻布十番祭りで

2019年08月25日 | 宅老のグチ

いつも都立中央図書館へ行くとき、大江戸線麻布十番駅から商店街を抜けて韓国大使館前の仙台坂をあえいで登る。今の日韓関係の悪化でも、警備は厳しくなっていないようだ。すでに日本の韓国嫌いな人の範疇を超えている事態となっているのだ。 歩きながら大使館の人達は食材をすべて本国から持ってきているのだろうか。

 昔といっても平成の初め鳥居坂青果商組合という組織があった。消費税が始まるとき、築地市場で会合があった。その時、彼らの車で日ごろトラックで埋まっている売り場が中古の外車販売店のようになった。後で鳥居坂の青果店の人に聞くと大使館納めで安定しているようだ。日ごろの付き合いで日本の些細な情報を仕入れているようだ。

 図書館で岩崎弥太郎伝と石川島播磨重工の社史を読む。後は戦後のカツギやの史料があるかどうかを我孫子市の戦後史を見る。負の戦後史は我孫子では消えている。

 3時ごろ図書館を出て、また仙台坂を下り、麻布十番駅に向かう。何か来た時と雰囲気が変わって、人が多すぎ前が見えない。

 ふといい匂いがしてみると、うに貝焼き、魚のにおいがした。まだ早いと思い、祭りのガイドブックと団扇をもらって歩く。この商店街の祭りは来る価値のある祭りと思う。いわゆる日本の祭りとここの祭りは全然違う。そもそもテキヤ風の店がない。シャレタ味を強調していて、肉系の店が多い。ビ-ルと高級な日本酒、魚も生は無くてすべて安全な焼いてあるもので選定している。火事の心配の有るものもそれなりの用意がしている。避難通路も確保してある。

 電車に乗ってじっくりガイドブックを眺めていたら、いい匂いのしていた店はお国自慢の味で福島県いわき市の店だった。いわきは原発と一番近い市。韓国大使館の人達は嫌がらせと思うのだろうか。日ごろの言動と違って日本の空気を吸っている以上、開き直って試食しているのだろうか。

この祭りの準備は少なくとも半年以上の準備がある。偶然だろう。ガンバレ福島は日本の合言葉。

 

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横浜カジノ反対・大原幽学の教え

2019年08月24日 | 宅老のグチ

幕末の東千葉で度重なる税金で農民は貧しかった。さらに一時的に入るイワシ漁で潤うとバクチが盛んとなった。その博徒たちが外国の脅威に対応する江戸幕府の権力が弱るにつれ、のさばった。国定忠治・飯岡の助五郎・清水の次郎長など今に伝説となっている人物はほぼ同時期である。福祉が増えると言ってテラ銭で補填するという発想で今の地方競馬・競輪・ボ-ト等でどう衰退している知っているのだろうか。これは原子力発電所の発想と似ている。マイナスの計算は無視されている。もしカジノが始まると横浜のパチンコが衰退すのが必至となる。計算するほど税収が上がるとは思えない。それよりは発想の豊かな横浜市民が夜の健全な時間を過ごす娯楽を創造するほうが良い。小林一三は何もないところに宝塚を創った。今は一大娯楽地で歌劇団の競争率は難関となっている。行政の収支計算は甘い。

 大原幽学はバクチ場に出入りする農民を指導し、健全にした。しかしバクトはテラ銭が減ったので言いがかりをつけて、組織を破壊し、元の農民に戻した。カジノ税収が上がるということは食事で得るより、カジノ参加者の負けの金である。全員が儲かることはない。

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塩も配給だった

2019年08月22日 | 宅老のグチ

戦後塩も配給だった。多くの記録で海水を煮詰めて塩を造った話があるが大量の塩を恒常的に仕入れるには漬物組合を作る必要性があった。今は塩を自由に好きなだけ購入することができるので組合の必要性が消え、漬物組合のない県もある。

 しかし、何年か前、北海道でO157による浅漬汚染で多数の老人が死去した。その後保健所の指導が厳しくなり、組合の無加入の業者も衛生講習を受けるように指導された。ある程度の衛生とか表示の情報がいきわたらないと忘れたころ事故が起きる。そして業界全体が連帯責任で不振となる。

 

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安孫子行き

2019年08月21日 | 宅老のグチ

2019年5月末で大方の業務を終了した普通駄菓子の漬物屋を訪問する。漬物業界でさくら大根とすももの甘酢漬けを製造しているところである。聞くと後継ぎの娘さんがとその連れ合いが仕事に興味を示していないという。さらに工場で働いている人たちが高齢化し.拡大意欲も消えたようだ。得意先とか設備や原料産地も同業で酢漬けの特異な栃木のメ-カ-に引き継がれる。昔話でやはり戦後大陸から引き揚げ戦友同士で漬物を始めたようだ。成田線の農家の夫人が物不足の東京に自家の農作物と漬物を電車に乗り訪問販売していた。

 オリンピック関連の道路工事が終わった都内は昔より空いた気がするが郊外はずいぶん混んでいた。

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行徳のむくどり

2019年08月19日 | 福神漬

市川市の歴史博物館へ外環道が開通して初めて行きました。以前はカ-ナビで苦労したところですが、割と時間のかからないところになった。天保の改革で株仲間が禁止され、嘉永4年株仲間が再興されても、塩の関東での流通が乱れていた。この歴史を調べている年報がある。市川市図書館郷土資料室で調べた年報をもらった。丁度夏休みの期間で混んでいると想像していたが朝早かったため空いていた。

 明治の初めに徳川政権が江戸から退去した時、江戸市中の塩取引の統制が壊れた。行徳から小名木川で塩のぼてふり行商人が大挙して塩販売をするため江戸に入っていた。このことが文献で(行徳のむくどり)と記載されていた。いまこの言葉を検索すると本当のむくどり集団が行徳の木々に群がることがあるようだ。天秤棒の両端にざるに入れた塩を行徳ブランド(当時は高級品の塩)で行商をしていたようだ。

 

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藤岡屋日記嘉永3年10月頃

2019年08月18日 | 福神漬

自由民権運動福島事件の始まりの始まりは花香恭次郎の誕生の過程

藤岡屋日記 嘉永3年10月から11月

嘉永3年9月25日

浦賀表より罷り帰る 下曽根金三郎。同日 初御目見 金三郎惣領 下曽根治三郎助

    10月24日

銀 十枚 下曽根金三郎

浦賀表御装備筒相試し等、世話仕、骨折り候につき、これを下さる。

   11月13日

山田奉行 山口丹波守直信(嘉永3年9月より安政5年1月・宇和島藩主・伊達宗城の実兄)

 名代戸田伊豆守 (この頃江戸に戸田氏栄が居たということか)

逃亡者高野長英が江戸に潜伏し、南町奉行の配下の人達に嘉永3年10月末日に撲殺された。当時の逮捕の指針としては生け捕りが本来の目的であるが冤罪で投獄された高野を生きて逮捕したら、微罪放免させてはいけないと町方は考えていた気がする。放火という江戸時代の大罪で逃亡していた高野長英を匿った人たちは遠島とか押込めの処分だった。表向き高野は自殺ということだが町方は最初から殺すつもりだったと思われる。当時の市中の噂では逃亡の支援した内田弥太郎は取り調べがあっても、処分はされなかった。

ここから後の経緯から想像すると、南町奉行と戻った遠山景元 と筒井政憲(元南町奉行)の力があったと思われる。この当時浦賀で下曽根金三郎の配下で内田弥太郎が海岸防備の仕事をしていた。弘化5年から嘉永6年まで浦賀奉行は戸田伊豆守氏栄だった。ぺリ-の国書を受け取った戸田氏栄は積極開国を表明していたため、間もなく閑職に左遷された。この間に生まれたのが幼名鉄丸・後の花香恭次郎である。恭次郎の恭は内田弥太郎の最初の名前内田恭からとったと思われる。

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いまは昔・日本と韓国のキムチの誤解

2019年08月17日 | キムチ

今は日本と韓国のキムチは似ているが、朝鮮漬という名の日本の漬物があった。60年ほど前の漬物でこの存在を語れる人も少なくなった。この日本の辛い味付けの漬物は今の漬物の分類では醤油漬けとなる。漬物も戦後になって、自家製から店舗で購入される時代となって、新規の味の開発が盛んとなった。そこに添加物販売業者の乱立から.意外と早く日本の漬物業者へ味の普及が進みました。この味の普及は戦争中朝鮮半島に滞在し、戦後引き上げた人たちに馴染んでいた味でした。キュウリの朝鮮漬、沢庵キムチ等と素材を変え次々と製品が生まれました。

 いつの時代もそこそこ利益が出れば、漬物は新規参入しやすい仕事でした。そこで過当競争となり、余った素材を新規の味ということで朝鮮漬けが普及しました。それには醤油漬けという選択しかなかったのです。戦後まだ冷蔵庫は家庭に入っても店舗・輸送業者に低温流通が普及するには至りませんでした。従ってポリ袋に入れて加熱殺菌して流通普及させる必要がありました。さらに日持ちさせるため、防腐材が入ります。戦後醤油が不足している時代に粗悪な醤油を使用して漬物を造っていました。醤油の原料の大豆が食用として出回っていたり、大陸から大豆が入らなかったこともあると思います。粗悪な醤油には安息香酸(今は使用禁止)という保存料が入っていました。そこで漬物業者は厚生省に働きかけ漬物に保存料を入ることに承認を受けました。それが今は拡大解釈され多くの漬物に保存料が使用されるようになりました。しかし浅漬けと梅干に関しては保存料使用は今でも違反となります。このことが過熱殺菌しない韓国のキムチ信奉者を刺激しました。日本からアメリカ等の国へ日持ちする(キムチ)が輸出されていました。これはキムチでないと騒いだのが韓国の人たちでした。冷蔵保存する必要のない日本のキムチは本物信奉者を刺激したようです。同様の事例はアメリカで寿司に魚以外の素材を入れた寿司が日本人が邪道と言っていました。いつの時代も食品はこのような問題があって変化しています。

 

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終戦の日だったが

2019年08月16日 | 宅老のグチ

15日は終戦の日だったが、犬の検診ということでバタバタ。昼近く豊洲から電話があってインタ-ネットが繋がらないという。豊洲へ行くと何らかの原因で電源が落ちたようだ。とりあえず旧盆ということで対応不能だった。ノ-トパソコンでWIFI接続でデータを取得し、。USBメモリにデ-タを移し、業務のパソコンに移転しなんとかなった。盆とか正月のトラブルはサポ-トが休みで築地ではいつもヒヤヒヤだった。結局故障の原因は不明でネットは繋がらない。この対応を新人に教えた。トラブルは経験の多いほうが良い。

夜9時に家に帰って、15日は年金の日だ。忘れていた。

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株仲間と政策保有株・日経14日夕刊

2019年08月15日 | 宅老のグチ

株仲間を今調べているので気になった記事だった。政策保有株に関しての企業情報開示が各企業にによって、抵抗があるという。この解説が舟橋信夫氏の説で説明されている。日本の株式会社が江戸時代の株仲間の発展形と考えればよいという。薄々感じていたのだが築地市場移転問題で仲卸組合の鑑札は相撲界の年寄株に似ていて、江戸時代の制度だなと感じていた。ところが今の時代とずれているが直すことができないので混乱していた。

 政策保有株の対立のもとには日本の伝統に欧米流の仕組みを導入したので日本資本主義の二面性があるという。同様にいくら日銀が物価を上げようとしても常識的にあり得ない国の借金でも日本を見捨てず、さらに戻ってくる日本人が多いと感じる。金があってもなくても居心地が良いのだろうか。

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パスモで東北行き

2019年08月13日 | 宅老のグチ

二本松市まで普通列車で東京から来るとは思わない駅員は次は切符を買ってくださいと言われた。スイカだと楽なようだ。車内検札はどうなるのだろうか。九州などのカードで北まで行く人はあるのだろうか。盆期間ということで撮り鉄が多く良いカメラを持っていて思わず見ていた。

 次回二本松へ行ったときの下調べで駅港内の観光案内所で自転車の様子を聞く。自転車を貸してくれるようだ。坂が気になるがなんとかなりそうだ。平島松尾の顕彰会は福島県の二大新聞の共催のように感じる。終わって帰る電車内で若い人たちの会話を聞いたとき、明治の東京で福島事件の高等法院の公判で福島方言で供術していたのだろうか。東京士族の花香恭次郎がいなかったら、裁判を理解できなかっただろう。教科書にも載っている事件なのに花香の存在が薄い。でも彼がいなかったら自由党左派は過激にならなかった気がする。

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