大田道灌が歌の道に入るきっかけを書いた常山紀談を図書館から借り出した。少し時間が経っていたのでなぜ今頃大田道灌だったかを忘れた。山吹の逸話の地は都内から埼玉に点在している。
明治20年4月の首相官邸での仮装舞踏会が小林清親が銅板画で風刺している。中央に大田道灌を扮した伊藤博文がいて、左隣に農家の娘姿の戸田極子が花を一輪差し出している絵が残っている。この当時は小林清親が風刺漫画雑誌の団団珍聞の画家で、都立中央図書館で明治20年4月から同年7月まで調べたが、伊藤博文の首相官邸でのレイプ未遂事件の記事は見当たらなかった。その上7月には伊藤博文の濡れ衣の洗濯という風刺画があった。団団珍聞は伊藤博文には批判的に見ていて、このレイプ未遂事件を報道をしていない不自然さが残っていて、長い間疑問だった。
明治20年8月13日号団団珍聞に『新聞社への落雷』という風刺記事があった。このレイプ事件を報道した新聞は5月と6月の60日間で12社の発行停止となって、団団珍聞にゴロゴロと揶揄されていた。
常山紀談 巻1
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。
定正上総の庁南に軍を出す時、山涯の海辺を通るに、「山の上より弩(おほゆみ)を射懸けられんや、又潮満ちたらんや計り難し」とて危ぶみける。折ふし夜半の事なり。持資、「いざわれ見来らん」とて馬を馳出し、やがて帰りて、「潮は干たり」といふ。「如何にして知りたるや」と問ふに、遠くなり近くなるみの浜千鳥鳴く音に潮の満干をぞ知るとよめる歌あり。千鳥の声遠く聞えつ」と言ひけり。
又何れの時にや、軍を返す時、これも夜の事なりしに、利根川を渡らんとするに、暗さは暗し浅瀬も知らず。 持資また、「底ひなき淵やはさわぐ山川の浅き瀬にこそあだ波はたてといふ歌あり。波音荒き所を渡せ」と言ひて事無く渡しけり。
持資後に道灌と称す。
小林清親は首相官邸での仮装舞踏会の銅版画の中心に大田道灌に扮した伊藤博文と農家の娘の戸田極子を置いたのは清親なりの仮装舞踏会を風刺したように思われる。これではこの絵画で出版弾圧は出来ないだろう。
もうご存知かもしれませんが、7/25日経夕刊に「ルーツ調査隊」の記事で、福神漬けの記事が出ておりました。
酒悦15代目が考案とされています。
参考までにコメントさせていただきましたので、承認は必要ありません。