実家のある愛知県渥美の施設に入っている母の意識が、急になくなり病院へ運ばれた
slowで、smallで、壮大な、建築計画の最終章である「ホテル小屋」第二棟目
土台や大引用に取り寄せたヒノキの芯持ち材を、色や重さで選別して、まさにこれから建て始めようと言う所に
母は長らくパーキンソン病を患い、この10年以上をかけて、会うたびに遠い所に行ってしまっていた
前回会った時には、ほぼ私のこともわからない状態で、話しかけても車椅子に座ったまま窓の外の寒々しい景色を眺めているだけで、何も出来ずに帰るしかなかった
「身体が温かい内に会うのと、冷たくなってから会うのでは、大きな違いがあるよ」
と、相方に言われ
翌朝まだ暗い時間に起床、バスで沖縄の本部を出て愛知のセントレア空港経由で田原の病院へ着いたのは、15時近く
一時は心臓も停まったそうだが
30キロまでに痩せ細った身体は、まだ呼吸を続けていた
酸素吸入もなく、自分の残された力で
手を触ると、体温があることを確認できた
開いた目を見ながら話しかけても、返事はなく、なんらかの反応を示すこともなく、ただただ呼吸の音が聞こえるのみ
外は、積もるんじゃないかという勢いの雪
渥美半島の雪は、数年ぶりだそう
父の発案で、両親共に最後の時は延命治療はなし
そして、葬儀などせずに大学病院へ献体する、ということは何度も聞かされていた
三日がたち、治る見込みのない母の身体に刺さっている命の綱の点滴の管を抜くことに、家族の気持ちもまとまった
周りの御世話になった方々の了解も得て、病院側にその趣旨を伝える
あとは、ただ息をひきとるのを待つのみ
愛知出身の祖父と新潟出身の祖母が東京で出合い、母は練馬で7人兄弟の三番目として生まれた
私が中央線沿線に住むようになり、善福寺公園や井の頭公園が懐かしいと、言っていたような気がする
戦時中の新潟疎開を経て、終戦後に父方の実家のある渥美のとある長屋に家族で住むようになった
戦後のドン底の時代も終わり、渥美出身の、カメラとレコード鑑賞と文学が趣味の父と出合い、7年間の交際後、結婚、
高度成長期に、私と姉を産み育てた
姉の小学校入学に伴い、大工である祖父の住む実家へ引越
三世代の家庭で、多少の窮屈さを感じながらも、ごく普通の田舎町で育った私は、美人(同級生によく言われた)だけどオチャメで、口数が少なく何でもやってくれる母と、良く遊んでくれて少々優しすぎる勤め人の父との間で、ごく普通に育った
しかし、成長するにつれて、都会に憧れる私に対して、自分の元に息子を繋ぎ止めようとする母の言動に、次第に私は嫌悪をもよおすようになり、
上京し二度と戻らないことを決意、その後「勘当する」とまで言われるようになる
死を待つ間、毎日のように小雪が降る
千葉に住む姉と、老老介護をしてきた父と、何日も三人だけで過ごすのは初めてのこと
さすが、「寝転び会」という読書会をやっていた父は、子供が何でもやってくれるので、こんな状況でも少し嬉しそう
孫の名前が出るたびに、
「ええこだなぁ」
を繰り返す
母の入所してる職員や福祉の関係者の名前を出しては、
「ええこだなぁ」
を繰り返す
1月27日の朝、病院から連絡があり、家族の見守るなかで、医師により死が確認された
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slowで、smallで、壮大な、建築計画の最終章である「ホテル小屋」第二棟目
土台や大引用に取り寄せたヒノキの芯持ち材を、色や重さで選別して、まさにこれから建て始めようと言う所に
母は長らくパーキンソン病を患い、この10年以上をかけて、会うたびに遠い所に行ってしまっていた
前回会った時には、ほぼ私のこともわからない状態で、話しかけても車椅子に座ったまま窓の外の寒々しい景色を眺めているだけで、何も出来ずに帰るしかなかった
「身体が温かい内に会うのと、冷たくなってから会うのでは、大きな違いがあるよ」
と、相方に言われ
翌朝まだ暗い時間に起床、バスで沖縄の本部を出て愛知のセントレア空港経由で田原の病院へ着いたのは、15時近く
一時は心臓も停まったそうだが
30キロまでに痩せ細った身体は、まだ呼吸を続けていた
酸素吸入もなく、自分の残された力で
手を触ると、体温があることを確認できた
開いた目を見ながら話しかけても、返事はなく、なんらかの反応を示すこともなく、ただただ呼吸の音が聞こえるのみ
外は、積もるんじゃないかという勢いの雪
渥美半島の雪は、数年ぶりだそう
父の発案で、両親共に最後の時は延命治療はなし
そして、葬儀などせずに大学病院へ献体する、ということは何度も聞かされていた
三日がたち、治る見込みのない母の身体に刺さっている命の綱の点滴の管を抜くことに、家族の気持ちもまとまった
周りの御世話になった方々の了解も得て、病院側にその趣旨を伝える
あとは、ただ息をひきとるのを待つのみ
愛知出身の祖父と新潟出身の祖母が東京で出合い、母は練馬で7人兄弟の三番目として生まれた
私が中央線沿線に住むようになり、善福寺公園や井の頭公園が懐かしいと、言っていたような気がする
戦時中の新潟疎開を経て、終戦後に父方の実家のある渥美のとある長屋に家族で住むようになった
戦後のドン底の時代も終わり、渥美出身の、カメラとレコード鑑賞と文学が趣味の父と出合い、7年間の交際後、結婚、
高度成長期に、私と姉を産み育てた
姉の小学校入学に伴い、大工である祖父の住む実家へ引越
三世代の家庭で、多少の窮屈さを感じながらも、ごく普通の田舎町で育った私は、美人(同級生によく言われた)だけどオチャメで、口数が少なく何でもやってくれる母と、良く遊んでくれて少々優しすぎる勤め人の父との間で、ごく普通に育った
しかし、成長するにつれて、都会に憧れる私に対して、自分の元に息子を繋ぎ止めようとする母の言動に、次第に私は嫌悪をもよおすようになり、
上京し二度と戻らないことを決意、その後「勘当する」とまで言われるようになる
死を待つ間、毎日のように小雪が降る
千葉に住む姉と、老老介護をしてきた父と、何日も三人だけで過ごすのは初めてのこと
さすが、「寝転び会」という読書会をやっていた父は、子供が何でもやってくれるので、こんな状況でも少し嬉しそう
孫の名前が出るたびに、
「ええこだなぁ」
を繰り返す
母の入所してる職員や福祉の関係者の名前を出しては、
「ええこだなぁ」
を繰り返す
1月27日の朝、病院から連絡があり、家族の見守るなかで、医師により死が確認された
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