明後日11月21日はあの「空白の一日」だと夕刊に掲載されていた。当時、12歳の私にはよく内容が分からず、その後も何とな~く程度の理解していなかったので、記事に目を通した。
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作新高校のエースとして甲子園を沸かせ、怪物と呼ばれた江川卓は法政大に進み、1977年のドラフト会議でクラウンライターライオンズ(懐かしぃっ)に一位指名されたものの入団を拒み、アメリカへ野球留学をしていた。当時のプロ野球協約には指名した選手と球団が交渉出来るのは「翌年のドラフト会議の前々日」とあり、ジャイアンツは「ドラフト前日はどの球団も契約可能」と解釈し、1978年11月21日に「空白の一日」を突いて契約したのが、世に言う「空白の一日」事件である。その後「エガワル(ゴリ押しして主張を通す)」なる新語も生まれた程、大騒動になった。また規約にはドラフト対象は「在学し」と書かれているのを「江川は卒業生なのでドラフト対象外」とも判断したそうだ。
そもそも空白の一日とは「前日まで契約出来ると他球団の指名計画が立てにくい」との理由で設けられ、契約出来ないと紳士協定で理解されていたそうだ。これに対して他の11球団は当然のことながら猛反発し、その年のドラフト会議にジャイアンツは欠席し、4球団が江川を1位指名した結果、タイガースが交渉権を得た。最終的にプロ野球コミッショナーはジャイアンツと江川の契約を白紙に戻し、江川は阪神と契約後、キャンプ前にジャイアンツへエース小林繁とトレードされることになった。
ジャイアンツが球界の盟主と呼ばれていた頃の傍若無人ぶりで、その後も何か気に食わないことがあると「重大決意」と称して新リーグ結成をちらつかせては、ゴリ押ししてきた。本来であれば白紙で終了するところだが、このような背景において最終的に江川は無事入団する事が出来た訳だ。ただ江川は135勝(72敗)、数々の賞を獲得したものの、実働わずか9シーズンであっさりと引退してしまう。、
そして江川の引退から6年後、ジャイアンツのゴリ押しに近い形でフリーエージェント制度や逆指名制度(1993年~1球団2名まで)の導入にも成功した。その後逆指名制度は自由獲得枠(2001年~)、希望入団枠(2005年~)と変わったが、その後裏金事件の発覚で、希望枠自体がその裏金の温床だとして2007年に廃止された。ちなみに2005~2007年は大学・社会人と高校生は別々にドラフトを行っていた。
1973年まで9連覇と圧倒的な強さを誇っていたジャイアンツだったが、その後はリーグ優勝はするものの、1981年の日本一奪回まで8年を要している。空白の一日が起きたのは1978年であるから、日本一から遠ざかっていた頃にあたる。ただもともとドラフトに弱いイメージがあるジャイアンツだが、9連覇以降のドラフト指名選手を見ると、定岡・篠塚・中畑・山倉・原・駒田・吉村・槇原・斎藤雅・川相・水野・香田・桑田・・・とそれほど悲観するような選手ではないことが分かる。
また逆指名制度(自由枠・希望枠含む)を利用して獲得した選手はこれまで22名いる。この中で主力として活躍したのは、河原・仁志・入来・高橋由・上原・二岡・高橋尚・阿部・木佐貫・久保・福田の11名と半分になる。そしてFAでは15名のうち、落合・清原・工藤・小笠原・村田・杉内と6名、また高校生ドラフトと同じ2005年から導入された育成選手枠では山口・松本・星野の3名が活躍した選手である(活躍したかの判断は私の独断)。こう見ると現在のジャイアンツの骨格を担う選手ばかりで、逆指名制度等は成功だったのでは?と思うのだが、10連覇を逃した1974年から逆指名制度導入前までのジャイアンツの20年間の成績はリーグ優勝7回(日本一2回)に対して、逆指名制度導入後は19年間でリーグ優勝8回、日本一5回・・・と驚くほどの差は無い。
つまり結論からするとこれまでの傍若無人ぶりは大した成果を得られなかったものの、この時のバッシングのおかげで昨年末の元球団代表解雇から端を発した(と思われる)、シーズン開幕前の主力選手の高額契約金疑惑や監督の1億円事件も何とな~くうやむやに対応出来たのだろう。何事も経験である。
めでたしめでたし・・・
【明日11/20(火)~21(水)は連休となります】
有限会社やな瀬不動産![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)