玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―三冊の回想録+日記―(2)

2022-08-23 15:31:08 | 近現代史

回想録は記録ではないので、必ずしも全幅の信頼を寄せるものではない。『時代の一面』に気にかかる一節がある。

1946年5月巣鴨プリゾンで東郷は久しぶりに松岡洋右前外相と面会をした。その時松岡は挨拶抜きに君も野村には困っただろう、あんな者はないと激語を発し、重ねて同じことを云ったので、自分は野村を起用したのは君ではないかと言ったのに対し、ああいう人とは知らなかったと述べ非常の反感を示した、と書かれている。

此処から汲み取れることは、野村吉三郎は海軍大将であり、阿部内閣の時の外務大臣でもあることから、非常にプライドの高い人物で、松岡の特異な性格にも動じない人物であると窺える。

此処で、外からの目として、駐日大使であったグルーの日記『滞日十年(下)』を見てみよう。

41年7月27日に「日米関係の急激な悪化を避けようではないか」とのルーズベルト大統領の提案があり、グルー大使はすぐに松岡の後任の豊田外相に面会した。ところが驚いたことに、豊田外相は7月24日付けの大統領から野村大使への提案を受け取っていないとのことであった。

野村はルーズベルトの提案を本国に伝えなかったようである。あるいは、重要な提案と捉えなかったのかもしれない。その後、提案内容は送られたが、彼の英語力を疑問視されるようになった。

野村の『米国に使して』の8月4日には「余としては、違算あっては誠に申訳なく且微力にも限りあることなるを以て、取り敢えず最近便あり次第、例えば来栖大使の如く外務の先輩を一時出張せしめられよに協力せしめられたく…。余としては手の出しようなき次第なり。」

これでほぼ合点がいった。野村は外交という分野に自信を失っていたのではないか。それで、外交に長けた協力者を求めた。

野村の来栖派遣の要望があったことは理解した。日米の一触即発の重要な時期に、何故、60歳半ばの海軍大将を担いで外交交渉の第一線に立たしたのだろうか。(次回へ続く)

野村吉三郎(1877~1964)

1932年上海での天長節祝賀会で爆弾テロに遭い右目を失明した。海軍大将で、海外経験が豊富で、若い頃に米国駐在武官を勤め、その時にルーズベルト大統領との親交もあった。

 

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