戦後のどさくさの中で、野村吉三郎駐米大使が日米交渉の経過を刻銘に綴った回想録『米国に使して』を1946年3月に刊行した。
遅れること2年余り、同じく全権大使として、11月15日にワシントンに到着し、12月8日の真珠湾攻撃まで僅か3週間の駐米大使を勤めた来栖三郎が『泡沫の三十五年』を1948年11月に刊行した。
11月12日には東京裁判の判決が出た。東郷茂徳は禁固20年となった。野村、来栖、東郷の3人は、日米開戦に深く関わった外交官である。
巣鴨プリゾンに拘留された東郷は、1950年7月に米陸軍病院に娘を呼び、その場で草稿を渡して5日後に死去する。翌年、サンフランシスコ条約により日本の主権は回復した。2年後の1952年に『時代の一面』が遺族の手により刊行される。
戦後7年経って、日米開戦に関わった三人の外交官の回想録が出揃ったわけである。
この間に、東京裁判で『木戸幸一日記』が既に証拠書類として出回っていたし、1947年には刊行されていた。東郷は『木戸日記』の6月8日の木戸の戦局収拾行動の件に対して、5月の中旬には東郷が中心となってソ連を仲介とする和平の議論を戦争指導者会議で始めていた事を『時代の一面』の中で書いている。抑々、東郷は戦争を終えるために入閣したのだと書いている。
東郷は、都合の悪い事は文章を端折る癖がある。野村は、都合の悪いことは書かない。来栖は野村の本を読んでから書いているので、野村に気遣いをしているが、偶に本音を愚痴ることがある。
この三冊の回想録はいずれも手強い文献である。
一番の疑問は、日米が一触即発の時点で、何故来栖を日米交渉に派遣したのか?ということだ。
東郷外相が来栖大使の派遣を決めたのは1941年11月3日と書いてある。東郷は伊勢神宮参拝の帰りに来栖の米国派遣を思い付いたそうだ。
結果から言うと、12月7日に真珠湾攻撃が始まるが、来栖がワシントンに着くのは11月15日である。日本側の交渉成立期限は11月30日なので、来栖には2週間の交渉期間しか与えられていないことになる。
何故、来栖もそんな無理筋の交渉をするために、はるばるアメリカまで行ったのであろうか?その結果、彼は開戦後は野村と共に抑留されてしまうのである。
役者揃いの手強い三冊の回想録に挑んでみよう。(次回に続く)