東郷が開戦間際に来栖大使を派遣した理由は彼の書いた回想録に「交渉不成立の場合は戦争となる関係上、如何なる面倒が到来するやは予知できぬ」と来栖に説明し、「交渉決裂即戦争という状況という局面をはっきり認識し、野村大使をもその気持ちにすること」と明確に述べている。
要するに、東郷は野村大使が交渉決裂し、戦争に入った時に取り乱して変な行動に出ないようにするために、ベテランの外交官である来栖を送ったと思う。
察するに、東郷は甲・乙案を提案できないなら外相を辞めると言いながら、実は、日本が大幅な撤兵をしなければ、米国は交渉を歩み寄らないし、陸軍は撤兵は絶対しないというし、海軍は石油が無くなって戦力自体がジリ貧になるから、破れかぶれに戦争する、と言うから、交渉決裂即戦争しかないと理解していて、外交第一と言いながら、開戦を何処かで確と受け入れていたのではないだろうか。
開戦の際の外交の店仕舞い、後始末の為に来栖を送ったと考えるべきだろう。東郷という人はどうも冷徹な判断をすることができる人物と見た。
ところが来栖は違った。2週間の交渉期間でも英国の斡旋に希望を持ち、チャーチル演説で英国斡旋の道を絶たれても、ハル・ノートによる実質的な交渉決裂状態になっても、まだ道を探した。それが、大使館で独自行動していた寺崎英成一等書記官の所謂「ルーズベルト親電」であった。彼はすぐに寺崎の工作に載ったようである。
ハル・ノートを受け取った11月26日に来栖と野村の両大使は東郷に「ルーズベルト大統領から天皇へ親電を送付をさせたら、交渉決裂の局面が変わるのではないか」と東郷にお伺いを立てる。
この時に、謀らずも東郷の本音が出てくる。来栖の愚挙を評して、「木乃伊取りが木乃伊になった」と嘆いた。
来栖は東郷に拒絶されても、その思いは慙愧として残った。開戦後に交換船で約1年後に日本に戻って、宮中や政府高官から歓迎された宴の席で、東條総理は、「米国大統領の陛下あての親電が今両三日早かったら…」と述懐されたのを聞いて、来栖の心中は、こちらが親電の承認を求めたのは11月26日で12月8日の開戦まで10日以上有ったと悔しがった。
来栖は理想派であり、東郷は現実派であろう。東郷は、年老いても自らの力を信じて行動してしまう元海軍大将の野村大使の不屈さを恐れて、結果として、交渉決裂即開戦の外交の道具として来栖を送りこんだようだ。
だが、結果は来栖も野村と同じように和平の為の交渉成立を必死に追い求めた。
ところで、来栖と東郷、東條を悩ました「ルーズベルト親電」とは如何なるものなのだろうか。(次回へ)
【参考文献:東郷茂徳『時代の一面』、来栖三郎『泡沫の三十五年』】