―なぜ日本は真珠湾攻撃で宣戦布告をしなかったのか―
北岡伸一は「ああした形で通告が遅れ、日本国民が卑劣であるという不当な非難を長く浴びせられることになった。その責任はどこにあるのか」という問題を提議をする。
アメリカが日本を戦争に仕向けたというならば、日本も最低線のルールとして30分前に交渉打ち切りの通知をすべきなのに、タイプが下手な外交官のお蔭で通知が遅れ、結果、卑怯と言われてもしょうがない。その責任は外務省にあるという論理を展開する。【北岡伸一『日本の近代-政党から軍部へ―』中央公論新社】
この国は奇襲も「戦の美学」としていた歴史があったのではないか。義経の一ノ谷、壇之浦、信長の桶狭間の時代から「奇襲も戦術」の一つなのであろう。
タイプが遅くて宣戦通知が遅れたという致命的なミスという筋書きは、日本大使館の外交官が十分に示し合わせた一種の欺騙行為であろう。
アカデミックな歴史家が最も嫌う状況証拠ではあるが、その時の大使館の責任者二人(井口貞夫・奥村勝蔵)は宣戦通知の遅れを咎められることもなく、戦後は外務次官まで登りつめている。奥村に到っては、昭和天皇とマッカーサー元帥の会見の通訳まで勤めているのである。
大使館員のタイプ・ミスは奇襲作戦の片棒を担いだ辻褄合わせとしか思えない。土台30分前に「交渉決裂」の文書を敵国に渡しても、それが国際法において、そもそもが「宣戦布告」にはならないのである。同じ趣旨のことを五百旗頭真も言っている。【井口武夫『開戦神話』中公文庫】