玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

市井の近現代史(6)

2023-05-30 13:23:05 | 近現代史

―国民は「ハル・ノート」のことを知らない―

「ハル・ノート」とは、当時、ハル国務大臣が野村・来栖両大使に渡した外交文書であるが、日本側はこれを外交交渉の最後通牒と捉えた。そして、日本は交渉打ち切り、開戦の道を撰んだということになっている。

しかし、木戸・東郷の云う「五大国」や「國の名誉」とは、米国の最後通牒に対して立ち上がる理由なのだろうか。

山岡貞次郎は実際に真珠湾攻撃の軍艦「比叡」に乗り込んでいた。彼は「日本は戦争を自ら求めた訳ではない。大東亜戦争は引くに引けなかった、逃れようとして逃れられない戦争だった。」と言う。

三根生久大は終戦を士官学校で迎えて戦後軍事評論家となった。彼は日米開戦を「堪忍袋の緒が切れて斬り込んでいったが、あまりに外交的配慮が足りなかった。」と振り返っている。

二人の政治家は開戦理由に「ハル・ノート」を挙げたが、若い軍人の二人は「ハル・ノート」の存在を知らなかった。

三根生は陸軍士官学校在学中であり、極秘の重要外交文書を知る由もない。山岡貞次郎は軍艦「比叡」に乗って1941年11月26日に単冠湾を出発し真珠湾に向かっていた。その同日に、米国では二人の大使が「ハル・ノート」を受け取っていたので、知る筈がない。

不思議なことに、木戸と東郷は11月26日の段階で、陸海軍は戦争準備態勢になっていたのを知っていたのである。

二人の政治家にとって、「ハル・ノート」とは米国の日本への特別な虐めを立証する証拠であり、戦争に踏み出すきっかけにすぎない。

いずれにせよ、ほとんどの国民にとって戦争は突然の出来事だった。

戦後に責任を感じて記者を辞めた武野武治(むのたけじ)は「国民不在のままに戦争が開始され、国民不在のままに戦争が終了させられた。その二つの<事後報告>の間に、300万の国民が死亡し、アジアでは2000万の人たちが殺された。」と述べた。

【参考文献:木戸幸一『木戸日記・東京裁判期』東大出版会、東郷茂徳『時代の一面』中公文庫、三根生久大『日本の敗北』徳間書店、山岡貞次郎『大東亜戦争』育誠社、鎌田慧『反骨のジャーナリスト』岩波新書】

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