玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

日米戦争 ―三冊の回想録+日記+日誌ー(3)

2022-08-24 14:59:31 | 近現代史

野村吉三郎は職業外交官ではない、海軍大将で国際法に知悉していた。しかし彼は英語が流暢ではなかった。従って、必ず通訳が付いたはずであろう。7月24日のルーズベルト大統領の会談でも通訳がいたであろうし、その内容が重要であれば当然に本国に電報を打たせたであろう。

グルー駐日大使の日記には、「野村は優秀だが、駐米大使館員は無力である」という評価をしている。当時の大使館員では、野村に日本から同行した奥村勝三がいたし、他にも寺崎英成や岩畔豪雄大佐が居た。

彼らは、本国の7月2日の御前会議で「対英米戦を辞せず」の一項が入ったことを知ってたかもしれない。それに、ルーズベルトは24日に提案しながら、7月25日には米国の石油の対日禁輸が実施された。どうもルーズベルト政権の揺さぶりなのではないかとも思える。この件に関連して、岩畔豪雄大佐と若杉公使は帰国する。

次に、1952年に刊行された陸軍省参謀本部の種村佐孝の「大本営機密日誌」を見てみよう。

8月20日―帰朝した岩畔大佐は「日米妥協の余地あり」と報告したが、海軍の若手はこれに憤慨している。―と書かれている。

1931年9月の満州事変以来、米国は日本の膨張化、帝国化を抑えるために経済制裁を進め、戦争も辞さない方向であった。日本は日中戦争が行き詰り、南方に石油や鉱物資源を求めて米国と衝突する方向にあった。

その両国の緊張関係の中で、ルーズベルト大統領とかつて親交があった野村吉三郎が日米交渉に派遣されたのだが、実は戦争への時間稼ぎの役を押し付けたのではないだろうか。

野村吉三郎が米国ワシントンの地に立ったのが1941年2月11日、応援に送った来栖三郎は1941年11月15日だった。米国時間で12月7日には真珠湾攻撃の日である。

外交に成果を上げるには、二人とも余りに時間が短か過ぎる。米国側にすれば、結果として戦争3週間前に派遣された来栖大使は、まだ交渉を続ける姿勢を見せるための所謂「欺騙外交」(騙し討ち)だという罵りも真っ向から否定できない。

東郷外相は「欺騙外交」(騙し討ち)を意図して、来栖三郎を派遣したのだろうか?また、来栖は無理筋の仕事をなぜOKしたのだろうか?

来週にまたこの疑問を考えてみたい。(次週に続く)

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日米戦争 ―三冊の回想録+日記―(2)

2022-08-23 15:31:08 | 近現代史

回想録は記録ではないので、必ずしも全幅の信頼を寄せるものではない。『時代の一面』に気にかかる一節がある。

1946年5月巣鴨プリゾンで東郷は久しぶりに松岡洋右前外相と面会をした。その時松岡は挨拶抜きに君も野村には困っただろう、あんな者はないと激語を発し、重ねて同じことを云ったので、自分は野村を起用したのは君ではないかと言ったのに対し、ああいう人とは知らなかったと述べ非常の反感を示した、と書かれている。

此処から汲み取れることは、野村吉三郎は海軍大将であり、阿部内閣の時の外務大臣でもあることから、非常にプライドの高い人物で、松岡の特異な性格にも動じない人物であると窺える。

此処で、外からの目として、駐日大使であったグルーの日記『滞日十年(下)』を見てみよう。

41年7月27日に「日米関係の急激な悪化を避けようではないか」とのルーズベルト大統領の提案があり、グルー大使はすぐに松岡の後任の豊田外相に面会した。ところが驚いたことに、豊田外相は7月24日付けの大統領から野村大使への提案を受け取っていないとのことであった。

野村はルーズベルトの提案を本国に伝えなかったようである。あるいは、重要な提案と捉えなかったのかもしれない。その後、提案内容は送られたが、彼の英語力を疑問視されるようになった。

野村の『米国に使して』の8月4日には「余としては、違算あっては誠に申訳なく且微力にも限りあることなるを以て、取り敢えず最近便あり次第、例えば来栖大使の如く外務の先輩を一時出張せしめられよに協力せしめられたく…。余としては手の出しようなき次第なり。」

これでほぼ合点がいった。野村は外交という分野に自信を失っていたのではないか。それで、外交に長けた協力者を求めた。

野村の来栖派遣の要望があったことは理解した。日米の一触即発の重要な時期に、何故、60歳半ばの海軍大将を担いで外交交渉の第一線に立たしたのだろうか。(次回へ続く)

野村吉三郎(1877~1964)

1932年上海での天長節祝賀会で爆弾テロに遭い右目を失明した。海軍大将で、海外経験が豊富で、若い頃に米国駐在武官を勤め、その時にルーズベルト大統領との親交もあった。

 

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日米戦争―三冊の回想録―(1)

2022-08-22 14:43:31 | 近現代史

戦後のどさくさの中で、野村吉三郎駐米大使が日米交渉の経過を刻銘に綴った回想録『米国に使して』を1946年3月に刊行した。

遅れること2年余り、同じく全権大使として、11月15日にワシントンに到着し、12月8日の真珠湾攻撃まで僅か3週間の駐米大使を勤めた来栖三郎が『泡沫の三十五年』を1948年11月に刊行した。

11月12日には東京裁判の判決が出た。東郷茂徳は禁固20年となった。野村、来栖、東郷の3人は、日米開戦に深く関わった外交官である。

巣鴨プリゾンに拘留された東郷は、1950年7月に米陸軍病院に娘を呼び、その場で草稿を渡して5日後に死去する。翌年、サンフランシスコ条約により日本の主権は回復した。2年後の1952年に『時代の一面』が遺族の手により刊行される。

戦後7年経って、日米開戦に関わった三人の外交官の回想録が出揃ったわけである。

この間に、東京裁判で『木戸幸一日記』が既に証拠書類として出回っていたし、1947年には刊行されていた。東郷は『木戸日記』の6月8日の木戸の戦局収拾行動の件に対して、5月の中旬には東郷が中心となってソ連を仲介とする和平の議論を戦争指導者会議で始めていた事を『時代の一面』の中で書いている。抑々、東郷は戦争を終えるために入閣したのだと書いている。

東郷は、都合の悪い事は文章を端折る癖がある。野村は、都合の悪いことは書かない。来栖は野村の本を読んでから書いているので、野村に気遣いをしているが、偶に本音を愚痴ることがある。

この三冊の回想録はいずれも手強い文献である。

一番の疑問は、日米が一触即発の時点で、何故来栖を日米交渉に派遣したのか?ということだ。

東郷外相が来栖大使の派遣を決めたのは1941年11月3日と書いてある。東郷は伊勢神宮参拝の帰りに来栖の米国派遣を思い付いたそうだ。

結果から言うと、12月7日に真珠湾攻撃が始まるが、来栖がワシントンに着くのは11月15日である。日本側の交渉成立期限は11月30日なので、来栖には2週間の交渉期間しか与えられていないことになる。

何故、来栖もそんな無理筋の交渉をするために、はるばるアメリカまで行ったのであろうか?その結果、彼は開戦後は野村と共に抑留されてしまうのである。

役者揃いの手強い三冊の回想録に挑んでみよう。(次回に続く)

 

 

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本屋の風景

2022-08-19 11:05:33 | やぶにらみ

ジャーナリストの青木理の「政治記者じゃないけれど…」という枕詞が些か鼻についてきた。

まさに朝日の政治記者だった鮫島浩は、今回の岸田改造内閣の主眼は、安倍派が混乱して菅系統の非主流と結託して政権を揺さぶるのを恐れたと言う。そのため観測気球として「菅副総理」説まで業と流したと言う。

内閣改造は、安倍派の主だった五人の有力者を閣僚や重要ポストに就けて反乱を収め、菅元総理を排除することに成功した、とのことだ。これが改造の大きな主眼だとも言った。

彼は「統一教会隠し」とは言わなかった。確かに隠せないほど党内に浸潤していた。癌ならもう第四期かもしれない。

これらを、ネットの「鮫島タイムス」聞いた翌日にブック・オフに行ったら、110円の格安棚に菅義偉『政治家の覚悟』が真新しい儘に4冊も並んでいたのには驚いた。

今まで、必ず安倍晋三の『美しい国へ』は2~3冊あったが、これが逆に一冊もなかった。

単行本の棚に行けば、2年前に小池百合子を書いた『女帝』を1000円で買ったのだが、今や220円の格安本となっている。

こんなところにも、政治家の人気の度合いは明確に現れるものだと感心した。

昨日は、新刊本を買いに駅前の本屋に行った。

どうせ無いだろうと、注文する積りだったが、店員さんがパソコンで調べてから陳列棚の下の引き出しから持ってきた。店は売れそうな本を予想して陳列しているのだと分かった。

とすれば、雑誌の並べ方はこんな感じで、一応売れ筋の本が置いてあるんだ。でも、これらは翌月にはブック・オフに並んでいるのだが。

巨星が落ち、月刊雑誌の売れ筋が変わるのかな、…。

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異様な懼れ方

2022-08-18 14:07:11 | 政治

岸田首相は何を懼れているのだろうか?清和会の極端論者の怒号を予想して「国葬」を決めたのではないか?国葬決定を先んじたので其処に議論が行かず、「旧統一教会」と自民党の関係に人々の関心が向けられた。すぐに安倍氏本人が統一教会票の差配をしていた事実が突き付けられ、何やら国葬の陳腐化という現象を産んでしまった。

彼は100人余の清和会議員の党内混乱を恐れたのだろうか?その後ろに居る右傾の支持者や支援者たちを恐れたのだろうか。

全く自民党というのは摩訶不思議な政党である。中は安倍党、麻生党、岸田党、二階党、・・・のように見えてくる。此処には政策も思想もなく、あるのは利権と既得権ばかり。

今や、岸田首相は自らの地位の保身と派閥の均衡と党内の評価しか見ていないようである。全く国民の方を見ていない。そうなると、国民はどんどんこの政権から離れていく。

個人的には、岸田首相は、あれだけ弄ばれ、蔑ろにされた安倍氏にやがて一矢報いるだろうと期待していた。

今やそれも叶わず、彼は安倍氏の遺した「行き先の判らない右傾化」の亡霊と戦っていかなければならないのだろう。

福祉施設の玄関先で売っていた。

花壇に植えました。赤い花がなかったので、…。

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