1945年8月15日、我が国はおよそ3年9か月に及ぶ泥沼の戦争状態を、形はどうであれ自らの手で終わらせた。75年目を迎えた「戦没者を追悼し平和を祈念する日」の今日は、いろいろ語りつくせない深い思いに駆られる日でもある。
過ぎ去った74年の一端を振り返るとき「人間とは如何に強欲で、傲慢で、その上に臆病ものである」ことに思い至る。傲慢と臆病。何かしら相容れない言葉にも聞こえるが、いつも周囲に怯える臆病者ゆえに、周囲の他人を攻撃することで、己の強さを誇示しようとする。いうなれば臆病者のガキ大将。
そんな気がしてならない。
そうして相手を傷つけ、自分も傷つき、みんなみんな塗炭の苦しみを味わうことになる。
そして善良な小市民は悲惨な貧しさに耐えることを強いる。そういった意味では、特に小学校に上がるまではとにかくお腹が減る、ひもじい思いがつきまとう私の人生のスタートであったような気がする。
ただその時点では、そういった空腹感が不幸なことという画一的な判断などあまりしなかったのではなかったか。多かれ少なかれみんなが同じように空腹や不足を抱えての生活であった。足るを知らない仲間同士が寄り添って、一緒に汗をかくことが当たり前であった。
そんな戦後の混乱に流した汗がやがて笑顔に変り、目には見えないけど世の中にあるといわれる「幸せ」というものに真っ正直に突き進んで行く。良くも悪くも、それが普通の生き方であったような青春時代を過ごした。もっと言えば、勉学も労働も、努力した者が報われる社会に向かっていた、頑張りしろがあった、と信じて生きてきた。その思いは今も時々頭をもたげる。
そして至る結論は、強欲や傲慢は罪である、ということ。戦争などという愚かな行為は愚の骨頂。
戦争を仕掛けることは、天に向かってツバするのと同じこと。全ては自らをも滅ぼす結果に至ることを世界の為政者は知るべきである。
本来なら全国でどれほど多くの人が集い、同じ方向を向いて戦没者の追悼をするであろう大切な日なのに、今年の場合は「コロナ禍」の最中。人々が集うことを避けるために、全ての式典や会場において縮小の一途であったことは、追悼する側、される側双方にとってお気の毒である。
これからの世の中では、このような「戦没者を追悼して平和を祈念する日」などという記念日が再び作られないことを切に願う8月15日である。。