「ずぶんのあだまで考えろ」を読み終わった。
残念ながら、副題にある「私が山びこ学校で学んだこと」にある、本『山びこ学校』は読んでいない。
でも、この「佐藤藤三郎」さんの著書見て、『山びこ学校』もどうしても読まなければと思っている。
本文を読み、この白皙の美青年が若き日の「無着成恭」先生だと知った。
だとすると、その隣で嬉しそうに手紙を読む賢そうな少年は「佐藤藤三郎」氏に間違いないだろう。
『山びこ学校』のもととなった、文集「きかんしや」の13号の表紙は、
「むちゃく・せいきょうのかお」と言う版画だと言うことです。
この「きかんしや」は15号まで発行され、三年間の教育実践のすべてと有ります。
序を書かれた大田堯氏による言葉で「啐啄同時」と言う言葉。
啐は卵の中の雛が殻の内側から鳴き声でサインを送ること。
そして、啄とは親鳥が間髪を入れず、機を見て殻を嘴で破ることを言うそうです。
山元中学校に入学した好奇心にあふれた年頃の生徒たちと、
少し風変わりな新任教師として赴任した無着先生との関係がそれだと解釈しているようです。
すばらしいですねー、文字通りの手造り学級日誌。紙質も悪く、勿論印刷はガリ版刷りの時代です。
子供たちもガリ切りに四苦八苦した様子です。
ガリ版刷りは私も小学生時代、そして就職してからの労働組合関係の資料作成で経験しています。
って、私スベルべの年齢も分かろうってものですね(笑)。
「きかんしや」の一号と「山びこ学校」の初版本が並んでいます。
不遜ながらそんな有名な本を読んでいないはずも無いと思うのだけれど、
内容が思い浮かばないから、やはり読んでいないのでしょうね。読みたいものです。
戦後間もない時代にこんな理念で教育に当たったとは、
無着先生ご自身が受けられた教育にも関心を覚えます。
でも、この本が世間ら知られ『山びこ学校』として版を重ね、有名になるとともに、
村人の中からは、貧しい村のはずかし話を世間に広めたとと言う、怒りの声も起きたと言います。
確かに、映画化されたりして、静かで貧しい山の中の村、そして学校が脚光を浴び、
その後の村人、生徒たち、そして無着先生自身にも変化が生まれざるを得なかったようです。
無着先生ご自身もその後、毀誉褒貶にさいなまれる事となった様子は皆さんご存知の事と思いますが。
でも、この本の著者「佐藤藤三郎」さんはその前も、その後も何も変わることは無かったと断じています。
しかし、持って生まれた彼の才能もさるものながら、それを引きだした無着先生も一つの才能だったと思う。
さて、次の本も読みつつ有りますが、『三0人の大百姓宣言』も素晴らしいですよ。
「佐藤藤三郎」「星寛治」「山下惣一」の三巨人がそれぞれ好きな人を10人選んで書いているのですから。
「佐藤藤三郎」氏は恥ずかしながら初めて著書を目にしましたが、後のお二人は、少なからず知っています。
図々しくも「星寛治」氏には大切なリンゴ畑にまでお邪魔して話を伺っています。
そして、「山下惣一」氏はなんとこの地で講演会の講師として、
深い雪の中をお越しいただき話を聞かせて頂きました。
三人に共通することは、自ら農業に携わり土を耕しつつ本も出されていると言うことです。
こんな骨太の素晴らしい巨人とも言える存在が有ること自体が私には嬉しいことです。
物や、お金の豊かさのみに価値を見出そうと言う、心の貧しさが目立つ今こそ必要な人たちです。
「ゆとり教育」も「教育基本法」もそんなものみんな蹴っ飛ばせ。
今必要な事は、子供たちが土に親しみ、真の生き方を学ぶことではないか。
やはり、日本人は土に生きた農耕民族の末裔では有りませんか。
私もつくずく、もう少し自分自身が若かったらなー、なんてちょっぴり苦い思いです。
そうですねー、もう一度山形を訪れて見たいですね。
旧山元村に行き、『山びこ学校』の印税で建てたと言う記念碑も見たい。
待てよ、そんな事で訪れると妻が「星寛治」氏に半ば強引に私を引き合わせたように、
「佐藤藤三郎」氏にも「トーちゃん、お会いしたら」なんて言い出すかな(笑)。