小屋仕舞
昭和45年の11月3日、文化の日の越後駒ケ岳は降雪の後の通例で、
眩しいほどに晴れ上がっていた。
10月の初雪から、何回かの降雪を経て、根雪となり深い雪に覆われるのだ。
山友達が、駒の小屋の番人「星六松」氏と付き合いがあり、小屋仕舞の手伝いを約束していた。
そのため、私を入れて3人の仲間と、通称「駒の六さん」と彼の娘さんの、
小学校6年生のミチ子ちゃんの5人で新雪の駒に登ったのである。
私にとって、その年は春山から初めて、最も数多くの山行をした年だった。
駒の湯からの、コースの急登も徐々に雪が深くなり、小屋に到着する頃には膝を越える積雪となっていた。
元気な5人は小屋で、ゆっくりと昼御飯を食べ、小屋仕舞に取りかかった。
私は小屋から一登りした山頂のステンレスの道標を外し、小屋まで担いで小屋に片付けた。
他のメンバーは、小屋の掃除、気象観測の結果を送信する無線機器の撤去等、
仕事は多かったが、天候の変化を考えると、小屋の時間を何時までも楽しむゆとりは無かった。
取り外した、無線機器等を背に帰途についた。
雪で白く輝き、青空に吸い込まれるような駒ケ岳の、山頂を振り返りつつ、
他愛の無い冗談を交わしながらの下山は楽しかった。
交替で重い無線機器を背負ったが、なぜか六さんが背にすると、
斜めになり背中から落ちそうになるのが可笑しかった。
真面目なのに、何をやってもユーモラスになり、しかし、何処かにペーソスを漂わせた、
独特の人格で多くの登山家に愛され、山好きな人達の間では結構有名な、小屋番だったのだ。
その翌年の10月末、あれほどベテランで、駒ケ岳の気象にも地形にも精通した六さんが遭難した。
一旦下山してから、風邪気味の体調を押し、連休に登る登山者の面倒を見るために小屋を目指し、
小屋の直下、もう一歩でたどり着く所で、吹雪の中無念の死をとげってしまった。
葬式に小屋仕舞の約束をした友と、駆け付けた。
その友も、十年余り後、越後三山の縦走中に、滑落して、六さんの後を追ってしまった。
(昨日は、驚きの対面をしました。なんと、この記事を目に留められた「星六松」さんの、
お孫さんが農天市場を訪問してくださったのです。だるまちゃんです。と自己紹介をしてくださいました。
もうお会いしてから45年も経つというのに、だるまちゃんに星六松さんの面影を見出し、
不覚にも涙してしまったスベルべでした。スベルべママもこの山のお話と同時期に、高校スキー部の、
夏合宿で、星六松さんにはお世話になっていて、私たち三人はしばし昔話に浸ったのでした。
もっとも、あの遭難事故時には幼い子供だっただるまちゃんには祖父の思い出は残っていないとか。
いずれにせよ、ブログが取り持つ縁とも言える奇跡的な出会いでした。)