畑に吹く風

 春の雪消えから、初雪が降るまで夫婦二人で自然豊かな山の畑へと通います。

連載85『北海道』

2016-10-18 05:21:41 | 旅行

   「北海道」           

  明治19年の1月。新潟県の長岡市に「北越殖民社」が組織された。貧困に苦しむ人々の救済を目的に、

集団で北海道への移住と開拓を目指す、壮大な計画だった。22年に入植者の募集が開始された。

 そして同235月、応募者が前後二陣に分かれて北海道の野幌を目指した。第一陣218名を引率したのは、新潟県北魚沼郡の大地主、関矢孫左衛門だった。

 移住民達は開拓地の野幌に到着後、ただちに割り当てられた、間口60(108.6メートル)奥行250(452.5メートル)の区画に入植した。

 入植者達は、植民者から次のような貸与品を受けて、生活を始めた。

1.  食料20ヶ月分(米・雑穀折半、味噌)

2.  農具(鍬、鋸、山刀)

3.  道具類(手桶、小桶、ざる、包丁、石臼等)

4.  種物(大小麦、大小豆、ジャガイモ、タマネギ、菜、大根等)

5.  草屋一棟(2間半の6)

 その他に、小作料などについても取り決めがあった。希望に燃えて移住した野幌であった。しかし与えられた土地は、丘陵地、沢地、泥炭地等様々な違いがあった。

 そして開拓の趣旨に賛同し参加した人々の中には、まったく農業の経験が無い人もいて、異なった自然環境と、慣れない日常生活の連続で、無断でひそかに転出してしまう人も少なからずいたと言う。

 こうした中で、指導者の関矢孫左衛門は人心の統一を図るべく、移住者達を集めて訓話をし、巡視を頻繁に行って、農業技術だけでなく、生活面の指導も行った。

 こうした先人達の、血のにじむような苦労が実を結び、現在に至り、江別市野幌地区は北海道でも有数の農業、酪農地帯になっている。

 実はこの移住民の中に、妻の実家の人達がいたのである。婿取りだった姉娘夫婦と妹の三人で参加したという。子供たちすべてに去られた両親は、家名を残すため養子を迎え今に至っていると言うのである。そして何の縁か妻の姉は結婚し、野幌の近く札幌に在住している。

 数年前私は、オールJRのバドミントン大会に参加し、初めて北海道の地を踏んだ。会場はなんと、野幌総合運動公園の体育館だった。妻の姉夫婦が応援に駆けつけてくれた。そして忙しい大会の日程を縫って、義兄は入植地に案内をしてくれた。碑文が掘られた大きな石碑の前で広大な農地を眺め、涙がこぼれてならなかった。なんと移住当時の、草屋さえ復元され文化財として残っていた。そして、血縁は全く無いのに、移住した家族と、妻の実家の付き合いは、いまだに続いている。

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