凄い男がいたもんだ
随分昔の思い出話。それも聞いた話で済みません。
団塊の世代の代表年代は、前後の学年に比して格段に人数が多かった。私の通った田舎町の中学校も、
今では統合されて一校になったが当時は二校あった。
その内の大きい方の中学校に在籍したのだが、A組からG組までの七クラスがあった。
学年ごとにクラス替えが行われたが、最も印象に残り、今でも付き合いが多く残っているのが三年生のときのクラスのF組だ。
笑いあり、泣きあり色々な事があった。高校入試を控えた、二月のある日、
昼休み時間に遊んでいて、一人が足を骨折してしまった。
一大事である。田舎の雪国の昭和三十八年は、国道さえ冬は雪に閉ざされ、春まで自動車は通れない。
隣町の県立病院まで、体力に自信のあるものが、交代で担架を担いだ。
凄い男の話はまだそれより前の話。夏の話だ。
仲間数人と、担任の教師で越後駒ケ岳の麓、「駒の湯」に遊びに行ったと言う。
露天風呂があり、二箇所ある上の風呂から、下の女性が入る風呂が見えたのだそうだ。(間に簾は有ったらしいが。)
悪餓鬼どもは、息を呑んで見ていたらしい。
ふと気配を感じ、後ろを振り返ると、なんと担任も同じ方向を見ていたそうだ。
そして翌日、越後駒ケ岳の登山道を気軽に見学に出かけたそうだ。
一人はいつものとおりの服装で、下駄を履いていたと言う。登り始めると中々気分が良い。
もう少し、もう少しと登っている内にとうとう頂上直下の「駒の小屋」に着いてしまった。
「駒の小屋」の番人は目を剥いて、「ここまで下駄履きで登ってきた者は居ない。始めて見た。」と驚いたそうだ。
後年「駒の小屋」の直下で遭難死した、有名な「駒の六さん」の追悼文集年譜を見ると、
六さんは昭和三十八年のシーズンから小屋番になったから、その先代らしい。
登った事にも驚くが、下りの困難を思うともっと驚いてしまう。
遊びで鍛えた団塊の世代の体力は信じられないようなものだったのだろう。
その男は私を「ドン」と言っては、からかった。曰くはドンファンからだと言うが、
当の本人には全く身に覚えのない事だ。今は言葉の真意を問う術も無い。
皆から愛されたその豪傑も、自ら起こした事業の失敗から、若くして自ら命を絶ってしまった。
越後駒ケ岳をみるといつもそいつを思い出してしまう。そして甘酸っぱい青春の記憶も。