「新潟日報より」
作家で、作詞家でタレントでも有った、「野坂昭如」氏逝去の報が新聞に掲載された。
氏の逝去の報に触れ、思い出すことがある。
あれは、昭和58年。野坂氏が田中金権政治に反発し、当時の新潟三区から衆議院議員選挙に立候補した時のことだ。
スベルべの地元で、立会演説会が有り、氏の経歴への好奇心と、僅かな政治意識から出席してみた。
話し、演説の内容は一方的で勉強不足。説得力に欠ける内容だったと記憶している。
そこで、血気盛んなスベルべは反発を覚え、野坂氏の弁論に反論した。
野坂氏は新潟三区の住民は、全て田中金権絡みの土建行政で食べている。
田中が居なくなったら、それまでの反動で全国から反発を買い、干される。と言うのが主たる主張。
「そんな、事は無い。この厳しい雪国三区、この深い雪の中でも農業で食べようと努力している人も多い。
三区の人間が全て田中角栄にすがって生きているなんてことは無く、不見識」と訴えた。
野坂氏の回答については記憶は無いが、勉強不足の氏の言葉は到底納得出来るものでは無かった。
他にも質問者、発言者が多く、遠慮したスベルべはそれ以上の論戦はせずに終わってしまった。
まだ、反論をしたいスベルべは、当時六日町に置いた選挙事務所を訪れるべく考えた。
そして、その話をしようと会場を出た野坂氏の前に立った。
なんと、すると野坂氏はスベルべに殴られると思ったらしく、ファイテングポーズを取り、
腕を顔の前に上げて、パンチから顔を防御する姿勢を取ったのだった。
野坂昭如と言うと、今でも語り草になっている「大島渚」殴打事件がある。
その時期と、新潟三区で立候補した時期関係は、興味が有ったらお調べ下さい。
野坂氏をいくら血気盛んな年頃とは言え、スベルべは殴打するなんて気は無かったですね。
でも、本当に一発ぶん殴っていたら「大島渚を殴った野坂昭如を殴った男」なんて名前を売っていたかも(大笑)。