鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

檑亭(らいてい)の3月11日

2012-05-16 | 鎌倉


折角、鎌倉山の見晴まで来たので、回遊式庭園・檑亭(らいてい)を覗くことにしました。
何度か訪ねたことがありますが、最近はご無沙汰でした。
入口で、東日本大震災で五重塔が倒れ、そのままになっているという情報がありました。


山門を入って右手に進むと、石塔が危なげな姿で立っていました。
上の3段が崩れ落ちたので、とりあえず重ねたようです。
これは五重塔ではありません。


山門建立の際、崖地を埋めて百体の無縁仏を安置したという百仏崖も影響があったようです。
いくつか不安定な仏像があり、崩れた石塔が足下に転がっていました。


急に空が暗くなり、雷雨の可能性が感じられました。
いろいろな石造物の見学はあきらめ、五重塔のある場所に急ぎました。


五重塔はしょうぶ苑の中に倒れていました。
側に「おついで地蔵」がありましたが、今では「見守り地蔵」の役割をはたしているのだそうです。


これは檑亭で入手した五重塔の絵葉書です。

この後、雨になりましたが、何とか雨の前にバスに乗り、濡れずに帰りました。

鎌倉夫婦池③森の散歩道

2012-05-15 | 鎌倉


パークセンター近くまで戻り、「自然水辺園」に沿って「森のさんぽみち」を歩きました。


湿地の中を歩く「湿地の観察テラス」です。


少し奥へ進むと、杉木立が出て来ました。


森から今来た道を振り返りました。


傾斜が急になり、木立の中のを階段を上るようになりました。


階段を上り切ると、夫婦池公園鎌倉山口に着きました。
鎌倉山さくら道の見晴バス停はすぐそこでした。


鎌倉夫婦池②下池の周辺

2012-05-14 | 鎌倉


上池と下池の間の土手道を渡って、「のんびり草地」にある谷戸の休憩所まで行きました。


休憩所の上にある藤棚では白フジが満開でした。


休憩所の左手、草陰の湧水の側に「防空壕跡」の掲示がありました。
ここには太平洋戦争末期に掘られたいくつかの横穴がつながる防空壕があったようです。


残っている横穴が危険なので、立ち入り禁止の金網が出来ていました。


谷戸の方から眺めた「水辺のテラス」です。


下池とその向こうに見える住宅地です。

鎌倉夫婦池①常盤口から

2012-05-13 | 鎌倉


常盤口でバスを下り、左手に入り鎌倉山さくら道を歩きました。
目的地は夫婦池公園です。


バス停若松の先を右折して5分ほどで、夫婦池公園パークセンターにつきました。


平日の午前中なので駐車場は閑散としていました。
奥の方にバイクが1台だけ見えました。


「水辺のさんぽみち」から見た上池です。
池の向うの木立にフジの花がのぞいていました。


下池まで進んで、池の向う側を眺めました。
池に張り出しているのは、水辺の観察テラスです。

引地川堤防の父と子

2012-05-11 | 藤沢


引地川親水公園の混雑を逃れて、川の堤防の上で休憩中の父と子を見かけました。
食事中の父に子どもが何か話しかけていました。


反応がなかったので、子供は自分で答えを出そうとしていました。
それでもここには、まだツルゲーネフの「父と子」ようなややこしい父子関係はなさそうでした。

引地川親水公園の藤棚

2012-05-10 | 藤沢


引地川親水公園の藤棚は、遠目でも分る程度にはフジの花が咲いていました。


満開を期待してやって来た人が側に近づいてじっくりと眺めていました。


人だけではありません。
長いこと待たされたクマバチも一生懸命でした。


これからしばらくはクマバチも大忙しで働かなければいけません。

大庭遊水池の木道

2012-05-09 | 藤沢


引地川・大庭遊水池にある自然観察のための木道です。
入口の立札に「危険カミツキガメ」とありました。


木道を進むと所々に水たまりもあって、子ども達には水辺の動植物観察には絶好の場所です。
「カミツキガメ」が残念です。


木道が稲妻型になっている場所がありました。
デザインの都合か、施工上の都合か分かりません。
ゆっくり足下を見ながら歩きましょう、ということでしょう。


親水公園近くの木道の上には、親子連れで愉しんでいる姿がありました。
「カミツキガメ」はここには来ないのでしょう。

新緑の大庭城址

2012-05-08 | 藤沢


フリーペーパーに「GW本番フジの満開間近」という見出しが出ていました。
その気になって大庭城址公園に出掛けました。
正門から入る石畳の道は新緑のトンネルでした。


大芝生広場のメタセコイヤも新しい緑で装っていました。
右後ろに藤棚があるのですが、花の気配はまったくなく、まだ日数がかかりそうでした。


これも大芝生広場のクスノキですが、まるで緑の魔法使いのようです。


奥の方の館址広場も、標石が緑のカーペットの上に並んでいました。

林間小学校

2012-05-07 | あちらこちら


小田急江ノ島線南林間駅東口近くにある林間小学校です。
その昔、初めて「林間小学校」の名前を聞いた時、夏休みの林間学校だと思ったことがあります。
昭和24年に大和町立で開校し、昭和34年に大和市立林間小学校になった歴史のある小学校です。


昭和34年当時の校舎は木造で、しかも火災で教室の一部が焼失したことがありました。
当時は生徒が多かったのでしばらく2部授業をしていたと聞きました。
今では「林間学校」と間違える人はいないでしょう。


矢倉沢往還の碑と日枝神社

2012-05-06 | あちらこちら


諏訪神社から矢倉沢往還(大山街道)に戻ると信号のある交差点に出ました。
ここに矢倉沢往還の石碑が建っていました。
交差する道は滝山街道で八王子の滝山へ向かう道のようです。


石碑と並んで庚申塔と道祖神らしい石造物が並んでいましたが、風化が激しく詳細は不明です。


石碑の側に鳥居があり奥に日枝神社(山王神社)の社殿がありました。
諏訪神社の末寺ですが、赤い鳥居があり、これは平成16年(2004)建立の新しいものでした。
矢倉沢往還歩きはここまでにして、南林間駅に向かいました。

下鶴間諏訪神社

2012-05-05 | あちらこちら


矢倉沢往還の途中で諏訪神社近道の案内板に従って左折すると赤い鳥居の前に出ました。
広々とした境内を持つ諏訪大明神、御神体は珍しい寄木造りの男神立像(市の重要文化財・非公開)で、
18世紀前半の作と推定されています。


鳥居をくぐって真っ直ぐ進むと右手に社殿がありました。
御神体が寄木造りということもあるのでしょうか、社殿の扉の彫刻などなかなか立派なものでした。
細部を見ていて、肝心の社殿の写真を撮るのを忘れました。


社殿の左奥にあった諏訪神社の元宮といわれる石の祠です。
東100mほど離れたところにあったものを移設したようです。


これは神社の神木になっているスダジイの大木です。


境内の右手手前に広がる桜の広場です。
最近作られたらしい手作りのベンチで一休みしました。


帰り際に鳥居を観察して、面白いことを発見しました。
これは両部鳥居と言う形式ですが、通常の両部鳥居と違って、主柱を支える稚児柱がそれぞれ4本あります。
今までに見た両部鳥居の稚児柱は合計4本ですが、これは合計8本です。
氏子の皆さんが大分頑張ったのでしょう。

下鶴間矢倉沢往還

2012-05-04 | あちらこちら


下鶴間ふるさと館から矢倉沢往還を西に向かいました。
すぐ右手に、黒板塀に囲まれた旧家の蔵が見えました。


少し進むと、下鶴間不動尊の石碑が目に入りました。
鶴林寺が次の目的地だったのですが、ここに立ち寄ることにして、急な石段を上りました。


下鶴間不動尊の御堂です。
石段を上がって分かったのですが、ここは鶴林寺の境内一部でした。
しかもこの不動尊で毎年初不動の1月28日にはだるま市が開催されることを知りました。


左手の境内中央にあった鶴林寺の本堂です。
護摩をたいて初不動を開くのはこの鶴林寺の住職でした。
境内には明治6年(1873)に設立された鶴鳴学舎(下鶴間学校)の跡地が保存されていました。


帰りは鶴林寺の石段を下りましたが、傾斜が急で手すりもないので、要注意でした。
石段を踏み外すと、矢倉沢往還まで転がってしまいそうでした。
通常は境内左側の往還から入る車道が使われているようです。


矢倉沢往還に戻ってまた少し進むと、面白い掲示がありました。
天保2年(1831)9月21日に渡辺崋山が下鶴間宿の「まんじゅうや」という旅籠に一泊したという話です。
簡単なスケッチも付いていました。


またしばらく矢倉沢往還をあるき、新緑のきれいな街道風景を撮りました。
車道が残念ですが、現役の街道ですから止むを得ません。


下鶴間ふるさと館

2012-05-03 | あちらこちら


高札場の裏手にある下鶴間ふるさと館です。
市指定重要文化財の旧小倉家の母屋と土蔵が復元されています。
1856年建築の宿場の商家で県内でも数少ない建物のようです。


展示品はそれほど多くありませんが、商家の薬箪笥等が並んでいました。


明治4年の下鶴間宿の写真パネルです。
現物は横浜美術館にあるようです。


これもパネルで、個人が所蔵する明治初期の下鶴間宿の写真のようです。
大きな写真パネルは、それだけで説明力があり、納得させられます。

中央林間から目黒川へ

2012-05-02 | あちらこちら


新緑の季節、「林間を歩こう」と考え、小田急線中央林間駅から歩き始めました。
駅東側の通りの白いハナミズキが盛りでした。


つきみ野地区の大和市歩行者専用道路を南下して、県道50号線で東に折れ、目黒川まで行きました。
ここから暗渠に気をつけながら目黒川沿いに歩きました。


菜の花の下から目黒川が姿を現す場所に出ました。右手に目黒公園がありました。


目黒川に沿って進むと、右手の旧家の庭に見上げるような新緑の大ケヤキがそびえていました。


道が矢倉沢往還(大山街道)に突き当ると目の前に高札場がありました。
その昔、下鶴間宿にあった高札場を復元したものです。

 
残念がら高札場の文字は読めません。左手にあった説明版です。
慶応4年は明治元年と同じですから、書かれている事、特にキリシタン禁制には驚きました。
明治6年キリシタン禁制の高札は撤去されましたが、実質的な禁制ムードは明治半ばまで続いたようです。