ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

指の節

2008年04月28日 | 百伝。
ファティマからリスボン行きの列車に乗った時、前に座った老婆のがっしりとした手が忘れられない。

額に刻み込まれた皺、汗の上に日焼けした茶褐色の顔。

お世辞にも小奇麗とは言えない服装。

その恰好は、ほんの少し前に農作業を終えたばかりの様子。

そんな出で立ちで何の用事でリスボンまで出かけるのか?と余計なお世話だが、とても気にかかる。

老婆は、そんな私の方には目も呉れず、目線は、ただ真正面に向って凝視をするだけ。

どうしても、その老婆の手が目に入る。


その手の指が視界の中に入る。
その指の節々の瘤のようなタコが気にかかる。

仕事をしている手なのである。

草を抜き、鍬を持ち土地を耕す百姓の手、まさしくその指なのである。

急に涙もろくなって目を閉じた。

私の祖母と同じ指、同じ手なのである。

そして、同じように、きれいな目をしていた。

リスボン駅に着くまで、その老婆は笑顔一つみせることもなく、ただ一点前を凝視していた。

そそくさに足早に去る後ろ姿が、何故か哀しく見えたが、それでいいとも思った。

その日中に訪ねたファティマという場所は、山の中にある観光地化された風情を持つが、聖母マリアが降臨されたというバチカンお墨付きの聖地である。

そして、あの日は、私の祖母の命日であった。

「ひらがな」しか書けなかった祖母を思い出す。

幼い頃、祖母に手を引かれ、百島の浜辺を歩いていた時、こんな事を聞かされた。

「昔、ここらを歩いていたらなぁ。アメリカの飛行機が飛んできて、空からババッと狙い撃ちをされたんよ。それで慌ててあの岩場の穴の中に逃げ隠れたんじゃよ」

これは明かに無差別攻撃である。

何にもない静かな島の民間人を意味もなく空から撃つなんて、アメリカ軍の指揮命令系統外のことだと思う。

ただ、祖母はそういう怖い体験をしても、心底アメリカ人を恨んでいなかった。

祖母が、「アンディ・ウイリアム・ショー(アメリカの番組をNHKで放送していた)」を嬉々としてテレビを観ていた姿を思い出す。

原爆に遭われた方々もそうである。

アメリカの原罪を恨んでいない。

人間の原罪を恨むのである。

節目の今日・・ポルトガルから仕事の依頼が届いた。

ありがとう・・。

聖火の行方

2008年04月28日 | 千伝。
大前研一さんが予測しておりますが、将来の日本は、すべて中国の10%国家になるとシュミレーションをしています。
軍事力、経済力も全部、中国の10分の1程度になるという計算です。

はてさて・・中国の北京オリンピックへの聖火リレー、世界中で注目です。


ところで、「健康のためには死んでもいい」とジョークを飛ばした人がいました。

「平和のための争いや人権抑圧、はては世界平和のために戦争をする」どこかの国々を思い浮かべながら、笑ってはすまされません。

平均寿命は伸びたとは言え、殆んどの人間は百歳に届かずに、この世から去って逝きます。

にもかかわらず、何故人間は、大国主義、愛国主義、はては大量殺戮兵器までを手にしたがるのでしょうか?

若い娘がブランドで身を飾り、プライド武装をして、街を闊歩するのに似ているのでしょうか?

広島の平和公園の原爆慰霊碑には、「安らかにお眠り下さい。過ちは、二度と繰り返しませぬから」とあります。

「武器よ、さらば」の強い決意だったのです。

また諺には「罪を憎んで人を憎まず」というのがあります。

あいつが悪い、どの国が悪いと、犯人さがしは、もっともなことですが、一番悪いのは、「戦争」だという究極を忘れないで欲しいものです。

もちろん、泰平300年の徳川時代の記録保持国、日本としては、また唯一の被爆国として、
宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」調に、「戦争はつまらないから、やめろ」と迷える大国を諭し続ける努力をすべきでしょう。

有史以来、日本が外敵に怯えた経験は少ないはずです。
鎌倉時代の蒙古来襲から明治のバルチック艦隊撃破までの神がかり、奇跡的な勝利が、いつしか神国日本思想を創りあげるに至りました。

戦後の総理大臣においても、日本列島を浮沈空母に例えたり、つい先ほどの総理で神の国発言で物議をかもした例もあります。

「日本は特別な国」という亡霊にあやつられてアジアの近隣国を土足で踏みにじったのも事実です。

それが、アメリカという道具主義物量大国に、精神主義日本は完膚なきまでの敗北を帰されたかに思えましたが、その思想は蛇のように執念深く生き永らえて、経済大国ジャパンを創りあげるに至りました。

ほんの20年程前には大国アメリカを凌駕する勢いだったのは周知の通りです。
高下駄をはいて転んだ感は否めない、付けがまわって来たとしか言いようがありません。

「普通の国日本」への軌道修正のほかはないのです。
グローバルスタンダードの弊害、合理主義、契約主義の薄情さをはかなんでも致し方ありません。

毛並みが違っても言葉が違っても、サッカーや野球で証明されたように、人間性やその心に於いては、さほどの相違もない筈です。

優勝劣敗、勝ち組負け組、とかいう低次元の考えこそ浅はかです。

かつて関東軍が、軍事力で創った満州王国。
大東亜共栄圏の誤りを繰りかえさない為にもスタンダード(標準普通)を受け入れてもバチはあたらないと思います。

また日本人の庶民気質には、何でも飲み込むフードファイターのような大きな胃袋は持ち合わせている筈です。

75日で、すべてを水に流す楽天思想も、これ日本人特有です。

狭いニッポン、うさぎ小屋のような家ではあるが外人さんいらっしゃいの姿勢、また他国に行く場合は、他人の家におじゃまするような・・かつての日本人が古来持ち合わせた謙虚さが肝要だと思います。

オリンピックへの聖火とは言え、世界は、ふりかかる火の粉ならば、振り払わなければなりません。

そう、カサブランカのラストシーンのように、「他の方法を探せ」と言いたくもなります。

平和の火を燃やし続けて・・。