芭蕉に興味があり・・西行法師という人物に、興味を持ち始めています。
そう、芭蕉を思い浮かべると、何か腑に落ちない謎が浮かんで、心に引っ掛かるのです。
西行は、北面の武士というエリート集団(同い年の平清盛とも同期だった)に属して、わずか22歳の若さで出家し、漂白の人とも呼ばれました・・この人物の残した足跡(和歌)はあまりにも大きく、いまだに西行を主人公にした映画もドラマもないと言います。(笑)
日本人の桜好きを決定づけたのは、西行かもしれないと言う説もあります。
夢、うつつ、きわみ・・恋の哀惜、涙の惜別、花の刹那を初めて絡めたのも、西行かもしれません。
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」(西行)
今から八百年もの昔、平家打倒の一番乗りに名を挙げた木曾の源氏、源義仲は、南進を避けて北陸に上り、倶利伽羅峠(石川と富山の県境)で、牛に松明を付けて平家勢に突進大勝。(伝説です)
越前から延暦寺に書状を送り、さらに京の都に上り、一時の征夷大将軍までの足跡を考えると・・「よくぞ、まぁ、あの時代に、もの凄い山越え道程」だったと考えてしまいます。
その後、後白河法皇と鎌倉源氏の策略によって滅ぼされた木曾源氏が、信州人にとって、今尚八百年もの時が過ぎても、地元で歴史的英雄人物と慕われるのも分かるような気がします。
木曾義仲ファンにとっては、後白河法皇も源頼朝も魑魅魍魎。牛若丸義経も奇襲ばかり行う強盗妖怪のような存在なのでしょう。(笑)
瀬戸内海沿岸では、源氏一族よりも平家一族のほうに親近感があるような気がします。
源氏によって京の都を追われた平家一族は、壇ノ浦で滅びるまで瀬戸内海を西へ逃げていきました。
平家の落人説も沢山残っています。
ところで、江戸時代「奥の細道」の松尾芭蕉は、木曾義仲に何らかの共感めいた気持ちを抱き、自分の死後、義仲の傍らに葬ってほしいと遺言しています。
実際、大津市の義仲寺に「背中合わせに義仲と芭蕉の墓」があるようです。
西行、義仲と芭蕉の生きた時代は、500年もの隔たりがあります。
が、芭蕉は、奥の山道細道を歩きながら、山育ちの義仲の生涯の何かを思いを巡らしていたのかもしれません。
芭蕉は、尊敬する西行法師の五百回忌の法要行として「奥の細道」を歩き、句を残しました。
ただ、西行法師は、木曾義仲を冷たくあしらうような和歌を残しています。
芭蕉は、それを十二分、理解していたはずです。
にもかかわらず、不可解な事に義仲の傍らに葬ってほしいと遺言を残しています。
奥の細道は、まさしく心の巡礼なのかもしれません。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」
人間というものは、瀬戸際になって、心流されるよりも、心動かされるものに、心落ち着くようです。
近いうちに、滋賀県大津市にある義仲寺と紫式部ゆかりの石山寺を訪れようと思っています。
そう、芭蕉を思い浮かべると、何か腑に落ちない謎が浮かんで、心に引っ掛かるのです。
西行は、北面の武士というエリート集団(同い年の平清盛とも同期だった)に属して、わずか22歳の若さで出家し、漂白の人とも呼ばれました・・この人物の残した足跡(和歌)はあまりにも大きく、いまだに西行を主人公にした映画もドラマもないと言います。(笑)
日本人の桜好きを決定づけたのは、西行かもしれないと言う説もあります。
夢、うつつ、きわみ・・恋の哀惜、涙の惜別、花の刹那を初めて絡めたのも、西行かもしれません。
「願わくば 花の下にて 春死なん その望月の如月の頃」(西行)
今から八百年もの昔、平家打倒の一番乗りに名を挙げた木曾の源氏、源義仲は、南進を避けて北陸に上り、倶利伽羅峠(石川と富山の県境)で、牛に松明を付けて平家勢に突進大勝。(伝説です)
越前から延暦寺に書状を送り、さらに京の都に上り、一時の征夷大将軍までの足跡を考えると・・「よくぞ、まぁ、あの時代に、もの凄い山越え道程」だったと考えてしまいます。
その後、後白河法皇と鎌倉源氏の策略によって滅ぼされた木曾源氏が、信州人にとって、今尚八百年もの時が過ぎても、地元で歴史的英雄人物と慕われるのも分かるような気がします。
木曾義仲ファンにとっては、後白河法皇も源頼朝も魑魅魍魎。牛若丸義経も奇襲ばかり行う強盗妖怪のような存在なのでしょう。(笑)
瀬戸内海沿岸では、源氏一族よりも平家一族のほうに親近感があるような気がします。
源氏によって京の都を追われた平家一族は、壇ノ浦で滅びるまで瀬戸内海を西へ逃げていきました。
平家の落人説も沢山残っています。
ところで、江戸時代「奥の細道」の松尾芭蕉は、木曾義仲に何らかの共感めいた気持ちを抱き、自分の死後、義仲の傍らに葬ってほしいと遺言しています。
実際、大津市の義仲寺に「背中合わせに義仲と芭蕉の墓」があるようです。
西行、義仲と芭蕉の生きた時代は、500年もの隔たりがあります。
が、芭蕉は、奥の山道細道を歩きながら、山育ちの義仲の生涯の何かを思いを巡らしていたのかもしれません。
芭蕉は、尊敬する西行法師の五百回忌の法要行として「奥の細道」を歩き、句を残しました。
ただ、西行法師は、木曾義仲を冷たくあしらうような和歌を残しています。
芭蕉は、それを十二分、理解していたはずです。
にもかかわらず、不可解な事に義仲の傍らに葬ってほしいと遺言を残しています。
奥の細道は、まさしく心の巡礼なのかもしれません。
「月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり」
人間というものは、瀬戸際になって、心流されるよりも、心動かされるものに、心落ち着くようです。
近いうちに、滋賀県大津市にある義仲寺と紫式部ゆかりの石山寺を訪れようと思っています。