Bike&SlowLife

バイクとカメラを愛し、自然を愛し・美しい風景を愛して、ゆっくり生きてる奈良県に住む気分は若者の雑記帳です。

経ケ峰

2011-10-16 | ツーリングレポート
行き先は三重県津市美里町

午後からジェベルで経ケ峰へ向かう、今日は登るのではなく登山口の下見に行くだけ
ここも登ってみたい山である、標高819.3m

13時過ぎにスタート、香芝から西名阪に乗る~天理を過ぎると一般国道である、法定速度と思われるスピード?で安全運転走行だ~伊賀市の友生ICで降りて~K56~R163を東へ~新長野トンネルを抜けて 約5Km 美里町長野だ、このあたりに登山口へ向かう道があるはず、ウロウロ探す。

すぐに見つかった 「経ケ峰登山口⇒」 の道標があった、家から85Km・約1時間半

道標に従い集落の中の坂道を上って行く~



集落の外れまで上ってきたらススキの向こうに経ケ峰(だと思う)が見える



この案内板があったので、目無地蔵さんを見て行こう、と思って右側の村道へ入る。

これが失敗だった、すぐに舗装はなくなって酷い路面、湿ってズルズル、狭くなってきて右は3m程下に谷川、コケそうで怖くなった、バイクから降りて1速に入れて歩く


汗をカキカキ前進~無事に悪路を通過


林道脇には苔生した石積みの段々畠じゃなく 「段々杉林」 、ずっと昔はこんな山の中まで畠か田んぼにして耕作していたのだろう



やっと目無地蔵の入口へ到着、汗だく、バイクを停めて坂道を歩いて登ると目無地蔵があった


5~6体のお地蔵さんがおられました、それぞれ信者さんから勧請されたもののようでした




バイクへ戻り経ケ峰登山口へ向かう、ここからはコンクリート舗装の林道である、杉の枯落ち葉はあるが走れる林道だ ちょっと走ったら登山道の入口が見えた


道標には 【 経ケ峰山頂まで 徒歩約1時間30分 】 と書いてある、丁寧に緯度経度も書いてあった、標高は375m


本日の事前調査はおしまい


針TRSへ戻る

好天の日曜でバイクはいつもどおりいっぱい停まっている、いつものメンバーも、、、バイクじゃなく車で来ている人も、、、、日曜はとにかく針TRSへ “出勤” しなくちゃあ ???






コメント (2)
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西行の墓

2011-10-16 | ツーリングレポート
先日 地図を見ていたら 河南町に西行法師の墓が載っていた、河南町の弘川寺境内に西行法師の墓があるのだ。

見に行こう、で、、、8時半頃からSuperCubで大阪府河南町へ
河南町役場のちょっと南・県道の白木南交差点から東へ入って約3Km、ワールド牧場の東側である

寺へ着いたら、山門の前に立派なだんじりが止まっていた、今日はかなん町の秋祭りのようだ、下河内の文字が入ったハッピを着た人たちが出発の用意をしていた。



なかなか大きな寺で歴史も古いらしい
天智天皇4年(665年)役行者の草創にかかるとのこと。 そして、戦国時代には堂塔ことごとく焼失したらしい。


 本堂です

本堂横を通り西行の墓へ向かう、墓や西行堂や庵跡や似雲の墓は山の中腹にあるのです。
また、さくらを愛した西行を偲び 距離500mの 「桜山周遊路」 も造られている。


山一帯が境内なのか? かなり広い、道標に従い坂道を登って行くとちょっとした広場になっている、ここに西行の墓があった

  写真中央奥が西行墳です
墓の横には次のように書かれている
「西行(円位)上人は晩年 空寂座主の法徳を慕って発臨され、文治6年(1190年)2月16日 73歳 当寺において入滅されました」


石碑には 「・・・・墓」と書かれている、はっきり読めません


 また、広場の対面には似雲の墓がある

『 江戸中期 広島の歌僧似雲法師は西行を慕い、その終焉の地を求めて、この地に西行の古墳を発見しました。
その後、西行墳の周辺に千本桜を植え、その中に「花の庵」を建てて住み、西行堂を建立し、生涯を西行追慕に捧げました 』⇒ 現地説明文より


ダンジリを引くハヤシや掛け声♪♪を聞きながら山道を歩く

もう少し坂道を登ると 「似雲法師の住まれた草庵」 があり、法師の読んだ歌も書かれていた
     「 須磨明石 窓より見えて 住む庵の 
               後ろに続く 葛城の峯 」

でも 今は木々が生い茂って須磨明石は見えません、木々の隙間から開発された住宅街が見えていました。


また、庵跡には阿波野青畝の歌碑も建っていた
    『 いくたびの 春の思出 西行忌 』


さらに坂道を登る、かなりの距離である、やっと西行庵趾に着いた

 狭い場所である、質素な庵に住んでいたのだろう?


これが無かったら とても庵趾とは気付きそうもない



まだまだ こんな道が続く
もう少し上まで行ってみたが、杉や桧の山の中から葛城山へ向かう登山道になってゆくようだ、、、、登って来た道を引き返す。



北面の武士だった佐藤義清が、白河上皇の寵愛する待賢門院璋子に・・・・ かなわぬ恋に世の無常を感じて出家し “西行法師” となり、そして この寺で73歳の生涯を閉じる。

何かウルウルしそうなショートショートツーリングのひと時でした。




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