幼稚園の頃の昼飯が片栗粉をお湯で溶いたもので、透明などろどろの汁をスプーンですくって食べた。こんなものに栄養が有るわけがない。弟は父と一緒に鶏の臓物を食べていたからすくすく育ち178㎝ぐらいになったが僕は気持ち悪くて食べられず、父の身長(169㎝)も僅かに抜けなかった。
ある日珍しく父が家族を連れて、食堂に行った。そこで、開口一番、今日は何でも好きなものを注文しろと言う。そんなことを言われても、粗末なものしか食っていないから、豪華な食事を知らず僕は「うどん」と言った。父は「こいつは安上がりでいいな」とのたまわったものだ。
あの頃はいたるところで、原っぱが有り、川やどぶが有り、子供にとって遊ぶ場所に困らなかった。冒険し、走り回り、転げまわり、喧嘩し、どろどろだったり、よくけがをしていた。しかし、あの頃、自然から得た本能や感覚は自然が与えてくれた財産だった。
医療設備も貧弱で、ちょっとしたことで亡くなる子供もいたから、病気などに対する漠然とした不安は強かった。それに比べ、映画などで見るアメリカの華やかさはこの世のものとも思えないぐらい華やかで夢の世界だった。しかし、貧乏だったが子供は将来に対する希望は持っていた。
広島駅の北側は、見渡す限りの田んぼで、その田んぼに線を引くように一本の道が山際まで続いていた。田んぼを耕していると人骨が出るとの噂だった。細い線の様な道が中央付近で十字路に交差し、その辺に一軒だけ八百屋が有った。
珍しいものが好きな父がポンコツの黒い車を買ってきて、家族を乗せ、ドライブした。その頃は自家用車なんてものは広島市内でも見当たらなかった。十字路の近くの八百屋に停め、母が窓から野菜だか買い、母は上気してしまい、お釣りをもらうのを忘れ、父も気付かずそのまま帰宅してしまった。
ある日珍しく父が家族を連れて、食堂に行った。そこで、開口一番、今日は何でも好きなものを注文しろと言う。そんなことを言われても、粗末なものしか食っていないから、豪華な食事を知らず僕は「うどん」と言った。父は「こいつは安上がりでいいな」とのたまわったものだ。
あの頃はいたるところで、原っぱが有り、川やどぶが有り、子供にとって遊ぶ場所に困らなかった。冒険し、走り回り、転げまわり、喧嘩し、どろどろだったり、よくけがをしていた。しかし、あの頃、自然から得た本能や感覚は自然が与えてくれた財産だった。
医療設備も貧弱で、ちょっとしたことで亡くなる子供もいたから、病気などに対する漠然とした不安は強かった。それに比べ、映画などで見るアメリカの華やかさはこの世のものとも思えないぐらい華やかで夢の世界だった。しかし、貧乏だったが子供は将来に対する希望は持っていた。
広島駅の北側は、見渡す限りの田んぼで、その田んぼに線を引くように一本の道が山際まで続いていた。田んぼを耕していると人骨が出るとの噂だった。細い線の様な道が中央付近で十字路に交差し、その辺に一軒だけ八百屋が有った。
珍しいものが好きな父がポンコツの黒い車を買ってきて、家族を乗せ、ドライブした。その頃は自家用車なんてものは広島市内でも見当たらなかった。十字路の近くの八百屋に停め、母が窓から野菜だか買い、母は上気してしまい、お釣りをもらうのを忘れ、父も気付かずそのまま帰宅してしまった。