《日本被団協》:「核も戦争もない世界を共に」、ノーベル平和賞受賞演説
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:《日本被団協》:「核も戦争もない世界を共に」、ノーベル平和賞受賞演説
被爆者の立場から核兵器廃絶を国内外に訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)へのノーベル平和賞授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で開かれた。日本被団協を代表して田中熙巳(てるみ)代表委員(92)が受賞演説し、「核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけない」と呼びかけた。ウクライナや中東での戦争を巡る国際情勢に触れ、「『核のタブー』が壊されようとしていることに限りない口惜しさと憤りを覚える」と警鐘を鳴らした。
授賞式は10日午後1時(日本時間10日午後9時)に開会。演説で田中さんは、戦争を開始した国の責任で被害者に償う「国家補償運動」と「原水爆禁止運動」を被団協の活動の2本柱として紹介し、「『核のタブー』形成に大きな役割を果たした」と強調した。
1945年8月9日に長崎で被爆した自らの体験を紹介し、「一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪った」と無念の思いを語った。戦後の被爆者は「沈黙を強いられ、日本政府からも見放され、孤独と病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けた」と長年の苦節を振り返った。
その上で、被団協として取り組んできた世界での被爆証言が核兵器禁止条約成立(2017年)に寄与したことを「大変大きな喜び」と表現。一方、ただちに発射できる核弾頭が世界に4000発も存在する現状を指摘し、「人類が核兵器で自滅することがないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と演説を締めくくった。
ノーベル賞委員会のヨルゲン・バトネ・フリードネス委員長がスピーチし、「核兵器が二度と使われてはならないという理由を身をもって立証してきた」とたたえた。
壇上には田中さんに加え、いずれも被団協代表委員で、長崎原爆被災者協議会会長の田中重光さん(84)、広島県原爆被害者団体協議会理事長の箕牧智之(みまきとしゆき)さん(82)も登壇。田中重光さんがメダルを、箕牧さんが賞状を受け取った。
被団協は56年の結成以降、被爆者による唯一の全国組織として国内外で被爆体験の証言などに取り組んできた。【オスロ安徳祐】
◇ノーベル平和賞演説要旨
田中熙巳(てるみ)・日本被団協代表委員(92)の演説内容の要旨は次の通り。
【冒頭】
1956年8月に日本被団協を結成した。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害を繰り返すことがないようにと、運動してきた。
運動は「核タブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いない。しかし、ウクライナ戦争におけるロシアによる核の威嚇、パレスチナ自治区ガザ地区にイスラエルが執拗(しつよう)な攻撃を続ける中、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない口惜しさと憤りを覚える。
【被爆体験】
私は長崎で、13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆した。一発の原子爆弾は身内5人を無残な姿に変え命を奪った。
そのとき目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまだった。戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと強く感じた。
【過去の運動と成果】
日本被団協は結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて立ちあがった。
1994年12月、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されたが死者への補償はなく、政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを続けている。
2016年4月、日本被団協の提案で世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がった。17年7月に122カ国の賛同を得て、「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びだ。
【未来への願い】
核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いだ。
原爆被害者の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれない。私たちの運動を、次の世代が工夫して築いていくことを期待している。
核兵器禁止条約のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指してほしい。核兵器国とそれらの同盟国の市民の中に、核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国政府の核政策を変えさせる力になるよう願っている。
人類が核兵器で自滅することのないように。核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張ろう。
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