日本国憲法の信教の自由が、明治以降の膨張・侵略政策を正当化するためのイデオロギー装置としてつくられ、大きな役割を果たしたことを反省・教訓化するためにつくられたことは明らかですが、この実態について、検証すること、学校で教えること、とりわけマスコミで報道することは、極めて不十分です。更に言えば日本全国の神社組織の戦争責任問題・反省の弁は、あまり聞いたことがありません。その筆頭に伊勢神宮や靖国神社があることは、最近の事例でも明らかです。
こうした本質を曖昧にしている事実を踏まえて、安倍自公政権は好き勝手な、身勝手な言動を行なっているのです。これも自民党の改悪改憲という野望を実現するための「布石」として位置づけることが大切です。
その際に大切なことは、名もなき民衆が氏子として組織し、その氏子の信仰心や、いわゆる「絆」心を政治的に利用していることです。このことは明治初期以降における神道教化政策によるスリカエを観れば明瞭です。宗教が、政治に利用されることは、古代以降一貫しています。その際に、民衆の立場に立つか、権力者の立場に立つかによって、宗教そのものの見方が大きく変わってくることを確認しておく必要があるように思います。
そういう視点にたって、無神論者の愛国者の邪論は、今回の伊勢神宮の遷宮儀式や靖国参拝問題、地域の神社の祭礼などを検証していくことにしました。なによりも信仰の自由を具体化するためです。民衆の信仰心を大切にする、尊重するためです。
そこで、まず大日本帝国憲法と日本国憲法の信仰の問題ついての基本的な考えを掲載しておきます。
大日本帝国憲法第28条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
日本国憲法第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
○2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
○3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。(引用ここまで)
「安寧秩序を妨げず」とは「国体」すなわち万世一系の現人神・神聖不可侵の天皇主権の国家体制を妨げないということです。「臣民たる義務」とは「兵役を第一に納税・納税の義務」のことです。
以上の大日本帝国憲法の規定がどのように具体化されていったか、そのことを国家及びその機関、いかなる宗教団体、学校は、繰り返し繰り返し、国民に徹底していく義務を負っているのです。それは憲法尊重擁護の義務(日本国憲法第99条)を負っているからです。ここに日本国憲法の政教分離の原則の本質があります。
しかし、これはほとんど空洞化されています。だからこそ、今日の事態があるのです。そこで戦前の「信教の自由」がスリカエとデタラメであったことを、掲載しておきます。以下ご覧ください。
東京新聞:第5部 不戦のとりで<中>軍国主義教えた国民学校:憲法と ..2013年8月25日
「子どもたちに命の大切さを教えられなかった。それが一番悔やまれる」。広島市の中心部にあった大手町国民学校の元教員藤川信子さん(88)=埼玉県三郷(みさと)市=は、セピア色の写真に目を落とした。担任していた二年生のクラス写真を見ると、今も涙があふれてくる。緊張した面持ちの子どもたちの三分の一ほどが原爆で命を失った。一九四三年春、女学校を出て十七歳で教員に。歴代天皇の名前の暗記や、わら人形を竹やりで突く訓練など軍国主義的な授業を、当たり前にしか思わなかった。子どもたちには「米兵が来たらやっつけるんだよ」と話すこともあった。それでも、違和感を覚える場面はあった。教員を集めて行われた修身の研究授業で、「神様って本当にいるんですか」と聞いた女の子が、職員会議で「危ない子だ」と糾弾されるのを聞き、背筋が凍る思いがした。神話の授業の指導書には「子どもたちに疑問を持たせぬよう教えること」と書かれていた(引用ここまで)
第5部 不戦のとりで<上> 特高のキリスト教弾圧(2013年8月24日)
第二次大戦中、私の家庭は常に特別高等警察の監視下にありました。それは家庭がキリスト教徒であったからです。(中略)現憲法によって、信教の自由はもっとも基本的な権利として大切にされています。本紙の憲法取材班に手紙を寄せた踊哲郎(おどりてつろう)さん(80)は、東京都練馬区の老人ホームにいた。傍らには、使い込んだ聖書と日本国憲法があった。宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリスト教を伝えた地とされる、鹿児島県伊集院町(現日置市)で育った。一九三〇年、町で最初のキリスト教会を麦野七右衛門(しちえもん)牧師が開き、踊さんの父末治(すえはる)さんは最初の信徒になった。特別高等警察(特高)の警察官は、踊さんの印鑑店兼自宅に、客を装って訪れた。天皇批判をしたり、スパイをかくまったりしていないかを疑っていた。家の中での会話も盗聴されるおそれがあり、家族は声をひそめて話した。毎週日曜の礼拝も見張られた。麦野牧師が平和の大切さを説こうとすると「中止!」と叫んで説教を止めた。(引用ここまで)
以上のように「信教の自由」が、如何にして大ウソであったか、明らかではないでしょうか。しかし、このような大ウソを大ウソとしてハッキリ主張できないような装置がつくり出されていました。それは教育でした。この教育政策が地域・家庭にまで浸透されることで、日本は「神の国」として、大ウソを大ウソとして言えないようなムードをつくることで、認知させていくことになるのです。これが膨張侵略主義を推進していく装置でもあったのです。
以下の修身の教科書の抜粋をご覧ください。特に「国旗」「靖国神社」の項は、現在も使われている論理です。その他、注意深く読んでいくと、現在使われている論理が透けて見えてきます。
第三 靖国神社
靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつつてあります。春〔四月三十日〕と秋〔十月二十三日〕の祭日には、勅使をつかはされ、臨時大祭には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、こゝにまつつてある人々にならつて、君のため国のためにつくさなければなりません。
第二十二 国旗
この絵は紀元節に家々で日の丸の旗を立てたのを、子供たちが見て、よろこばしさうに話をしてゐる所です。どこの国にもその国のしるしの旗があります。これを国旗と申します。日の丸の旗は、我が国の国旗でございます。我が国の祝日や祭日には、学校でも家々でも国旗を立てます。その外、我が国の船が外国の港にとまる時にも之を立てます。国旗はその国のしるしでございますから、我等日本人は日の丸の旗を大切にしなければなりません。又礼儀を知る国民としては外国の国旗もさうたうにうやまはなければなりません。
第二十三 祝日・大祭日
我が国の祝日は新年と紀元節と天長節・天長節祝日とでございます。新年は一月一日・二日・五日、紀元節は二月十一日、天長節は八月三十一日、天長節祝日は十月三十一日でいづれもめでたい日でございます。大祭日は元始祭・春季皇霊祭・神武天皇祭・明治天皇祭・秋季皇霊祭・神嘗祭・新嘗祭でございます。元始祭は一月三日で、宮中の賢所・皇霊殿・神殿にてお祭があります。神武天皇祭は四月三日、明治天皇祭は七月三十日でございます。神嘗祭は十月十七日で、この日にはその年の初穂を伊勢の神宮におそなへになり、新嘗祭は十一月二十三日で、この日には神嘉殿にて神々に初穂をおそなへになります。又春分の日、秋分の日に、御代代の皇霊をお祭になるのが春季皇霊祭・秋季皇霊祭でございます。祝日・大祭日は大切な日で、宮中では天皇陛下御みづからおごそかな御儀式を行はせられます。我等はよくその日のいはれをわきまへて、忠君愛国の精神を養はなければなりません。
第二十七 よい日本人
天皇陛下は明治天皇の御志をつがせられ、ますます我が国をさかんにあそばし、又我等臣民を御いつくしみになります。我等はつねに天皇陛下の御恩をかうむることの深いことを思ひ、忠君愛国の心をはげみ、皇室を尊び、法令を重んじ、国旗を大切にし、祝祭日のいはれをわきまへなければなりません。日本人には忠義と孝行が一ばん大切なつとめであります。家にあつては父母に孝行をつくし、兄弟たがひにしたしまなければなりません。人にまじはるには、よく礼儀を守り、他人の名誉を重んじ、公益に力をつくし、博愛の道につとめなければなりません。そのほか規律たゞしく学問にべんきやうし、迷信におちいらず、又常に身体を丈夫にし、克己のならはしをつけ、よい習慣を養はなければなりません。大きくなつては志を立て、自立自営の道をはかり、忠実に事にあたり、志を堅くし、仕事にはげまなければなりません。我等は上にあげた心得を守つてよい日本人とならうとつとめなければなりません。けれどもよい日本人となるには多くの心得を知つて居るだけではなく、至誠をもつてよく実行することが大切です。至誠から出たものでなければ、よい行のやうに見えてもそれは生気のない造花のやうなものです。(引用ここまで)
以上の「道徳」が儀式や行事をとおして繰り返し、繰り返し浸透させられていったのです。ということは、逆のことを、すなわち日本国憲法の理念を、繰り返し、繰り返し国民的行事や行動の中で具体化していくことが、大切であること、このことに気づくはずです。だからこそ、前後自民党政権は憲法記念日に政府主催の行事を行なってこなかったのです。憲法的視点を繰り返し、繰り返し、実践してこなかったのです。まさに戦前を教訓化していたのです。
その延長線上に、以下の記事があります。ご検討ください。
13歳からの道徳教科書を読む | 下村博文 One Response to 13歳からの道徳教科書を読む
「道徳教育をすすめる有識者の会」事務局 より: 2012年5月7日 2:42 PM
私は『13歳からの道徳教科書』を編集した「道徳教育をすすめる有識者の会」事務局の者です。この度は、2月22日に引き続き、『13歳からの道徳教科書』を取り上げていただき、心より感謝申し上げます。おかげさまで、大好評をいただいている本書ですが、本会の目的は、学校現場でよりよい道徳教育が行われることです。その気運を盛り上げ、道徳の「教科化」を実現させるためにも、これからもご支援いただければ幸いです。なお、本会のウェブサイト(http://doutoku.jimdo.com/)で今回の記事をご紹介させていただきました。問題がありましたら、すぐに対処いたしますので、ご連絡ください。
〈報告〉第1回道徳教育推進研究全国大会 開催! 「人の生き方に学ぶ道徳教育とは」 http://doutoku.jimdo.com/
以上の不道徳を普及しようとしているのが、現在の文部科学大臣なのです。呆れるばかりですが、それもこれも日本国民が選択しているのです。何としても、彼らを博物館に送り込む必要があります。なお、真の道徳とは何か、について、以下をご覧ください。
安倍政権の「教育勅語道徳教育」に大喝!日本国憲法に基づく新「道徳教育」論の徹底化こそがいじめを解決! (2013-03-18 09:25:17)
最後に、天照大神を祀る伊勢神宮を頂点とする神社体系が侵略主義の象徴として、占領地に移動していった事実を掲載しておきます。そこでやったことは何か、占領地の民衆を、日本国民と同じように「洗脳」=マインドコントロールしていくのです。神社・天照大神はその装置として重要な役割を果たすことになったのです。
靖国神社参拝が戦犯の合祀で問題化されていますが、日本国民としては、伊勢神宮に祀られているとされている天照大神、皇室の祖先神が、どのような役割を果たしたか、神様にお訊きする必要があると思います。きっと、そんなはずじゃなかった!とお怒りのはずです。
「お伊勢さん」が、どのようなお仕事をしたか、以下をご覧ください。
藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』(新日本新書91年7月刊)より
植民地支配の手段
日清・日露戦争の結果、海外における日本の新領土が拡大されるとともに、これらの植民地に新しく日本の神社が建設され、それが在留日本人の精神的結束の中心とされる七ともに、植氏地人民の日本化の手段とされた。
もっとも早く明治二九年(一八九六)に台湾神社(台湾神宮)建設案が貴族院で可決され、これは三三年に創立された。台湾神社は直接神宮とは関係はなかったが、朝鮮では三一年に京城の南山大神宮(京城神社)が創建されており、四○年(一九〇七)には大田神宮が建立されている。そして四三年の韓国併合にさいしては、他の官国幣社とともに神宮に勅使がさしむけられた。こののち朝鮮には各地に大神宮その他の神社が建立され、とくに大正八年(一九一九)には朝鮮神宮(祭神天照大神・明治天皇)の創立が定められた(一四年完成)。このほか満州でも明治四一年
の千山神社をはじめとして数多くの神社が設立された。のち太平洋戦争の時期に入ると、昭和一五年(一九四○)南洋神社・北京神社が創立され、また満州国がつくられたさいには、その首都に天照大神を祭った建国神廟なるものが創建されたことは人々の記憶に新たなところであ これらの植民地に建設された神社は、一般の宗教教会や寺院の設立とは意味がちがい、たんに在留日本人中の信徒の信仰のためにつくられたのでないことはいうまでもない。それは国家とむすびついた神社の性質上から考えて、日本の天皇の政治的支配に対する植民地人民の精神的服従、いわゆる「皇民化」を要求するものであった。そしてそのような植民地支配の手段として、天照大神を中心とする神道信仰が利用されたのであった。(略)
侵略主義と天照大神
それと同時に戦争による侵略地民族の支配にあたっては、日本の神の信仰の露骨な輸出がお
こなわれた。まず旧領土である朝鮮における神社制度の確立に関しては、すでに一一年に関係五勅命が公布されており、これによって一四年には朝鮮の全羅南道だけでも天照大神・明治天皇を祭神とする神祠一三四社が創立され、また朝鮮神宮内に「皇国臣民ノ誓詞の柱」が建設されて、いわゆる朝鮮人皇民化を推進した。一三年には関東州旅順市に天照大神・明治天皇を祭神とする関東神宮創立が天皇の名によってさだめられ、満州国に関しては一二年の「日満条約」によって満州国内における日本の神社設置と神社行政権を承認させた。さらに満州国については、一五年
皇帝が日本訪問のときこれを伊勢神宮に参拝させ、またその首都に天照大神を祭神とする建国神廟を創建させた。これによっていわゆる「独立国」とされた満州国が、まったく日本の領土にはかならないことを内外に告白したのである。また一五年には中国の占領地帯に北京神社・蒙彊厚和神社が創立され、南洋神社の鎮座祭もおこなわれた。これらの事実は国家権力とむすびついた神社、なかでも天皇と密接なつながりのある天照皇大神宮と明治神宮とが、いかに侵略戦争と植民地民族の支配に利用されたかということをしめしている。この事実について神宮当局者は自分たちに責任はないと弁明するかもしれないが、神社が国家神道として国家権力と結合している限りさけることのできない運命であろう。神社が真に国民の信仰とむすびついているならば、権力の擁護をうけなければならない理由はどこにもない。国民とむすびついてその平和と幸福に役立ってこそまことに国民の神社といいうるのであろう。(引用ここまで)
最後に、『別冊太陽 伊勢神宮 悠久の歴史と祭り』(平凡社13年5月刊)の「伊勢神宮 悠久の歴史」の項、武田秀章「近現代 時代の試練を乗り越えて」には、以上のような侵略主義のことは書かれていません。ケシカラン話です。
以下「解説」の目次のみを掲載しておきます。ご覧ください。
はじめに
明治維新と神宮
神宮改革と国家的遷宮制度の形成
明治天皇と神宮備林
敗戦・占領と神宮
国民奉賛による式年遷宮(引用ここまで)
実に、大ウソの「説明書」となっているのです。これでは、伊勢神宮の本質、伊勢神宮を丸ごと捉えることはできません。教訓も何もあったものではありません。しかし、別の視点で考えてみると、ここが、ネックだなということが判ります。触れたくないのですね。大いに大ウソを暴き、論破する必要があるように思います。国民的伊勢神宮像を再構築していく必要があるように思います。江戸時代の民衆のように・・・・。その時にはじめて「信仰の自由」が具体化されると思います。つづく