以下の記事をご覧ください。
ブラック企業に殺される若者たち!「みなし労働時間制 ... - J-Castニュース 2013年9月20日
戦後民主主義の出発点を象徴する一つとなった労働基本権が、自民党政権によってないがしろにされてきた「結果」、引き起こされた事実がリアルに描かれていると思います。しかし、昨日の記事にも書いたように、誰が、何のために、このような制度をつくったのか、この結果をつくりだすためにどのような手口を使ったか、このことは、この記事にあるように、忘却の彼方に封印されてしまっています。それは何故でしょうか。恐らく、この事実がバレると、天と地がひっくり返るからかもしれません。だからこそ、この事実を暴いていかなければならないと思います。
非正規労働を増やしてきた真因を隠蔽する東京など日本のマスコミの大罪は深刻!これは選挙報道でも同じ!(2013-07-15 10:17:42)
1、労働·雇用(2013年参議院選挙各分野政策) - 日本共産党中央委員会
自民党・公明党連立政府が、2003年に労働基準法を改悪して「解雇自由条項」を盛り込もうとしたときに、日本共産党は、労働者・労働組合と協力してこれをやめさせ、逆に解雇を規制する条項をはじめて盛り込ませました(この条項はその後、労働契約法に移行)。さらに、「解雇規制・雇用人権法」を提案して、労働者の人権をまもり、ヨーロッパ並みの労働契約のルールの確立をめざしています。具体的内容は、最高裁の判例などで確立している「整理解雇4要件」(①差し迫った必要性、②解雇回避努力、③選定基準・人選の合理性、④労働者・労働組合の合意)を法律に明文化して解雇制限のルールを法律に明記するとともに、裁判などで解雇を争っているあいだは雇用を継続する、解雇無効になった場合には職場に復帰するという就労権を保障しています。
希望退職・転籍についても、本人同意・取消権、労働組合の関与などのルールを確立します。解雇を目的としたパワーハラスメント(いじめや嫌がらせ)を禁止し、人権侵害をきびしく取り締まります。労働基準監督署が、退職強要などを日常的に監視し、取り締まるようにします。会社分割などにともなう雇用と労働条件のルールをつくります。55歳一律転籍など、年齢による雇用契約の不利益変更や採用制限を禁止します。事業所の閉鎖、移転、縮小の際の自治体との協議の仕組み(リストラ・アセスメント制度)をつくります。(引用ここまで)
もう一つあげておきます。それは、八幡製鉄所のストライキ時もそうですが、8時間労働制を掲げただけで、弾圧されたというのが、日本の現実でした。それは社会民主党 (日本 1901年) にみることができます。しかし、日本社会主義運動史 - マルクス主義同志会 にも書かれていません。詳しくは別項に掲載することにしますが、1901年の段階、八幡製鉄所のストライキの19年前においては、禁止条項の一つだったのです。逆に言えば、社会民主党に結集した人たちの先見性にはアッパレ!です。
このような日本近代史の輝かしい歴史を継承している日本国憲法と労働基本権ですが、それが、今土台から崩されようとしているのですから、呆れるばかりです。日本の労働者諸君!たたかおうじゃないか!です。以下ご覧ください。
「八幡製鉄所争議」(『溶鉱炉の火は消えたり』)-史料日本史(1162)
47八幡製鉄所東田第1高炉 | 日本の近代遺産50選 2009年4月2日
浅原健三の気骨。溶鉱炉の火は消えたり | 日本の偉人 列伝 2005年12月9日
それでは、犬丸義一・中村新太郎『物語 日本労働運動史上』(新日本選書74年9月刊)に書かれていた官営八幡製鉄所の大ストライキの記事をご覧ください。
1920年という歳は、フレームアップ事件といわれている大逆事件が演出され、いわゆる「冬の時代」から10年でした。第一次世界大戦による、いわゆる「大戦景気」は、大量の労働者を作り出した結果、労働者のたたかい、学生・婦人の運動、普選運動、社会主義運動などを復活させていきます。それは、1917年にはロシア革命、1918年には米騒動、19年には3.1独立運動、5.4運動などの運動の後でした。日本が国際聯盟に加入したのは、このストライキの直前の1月でした。こうした日本における資本主義の発展と戦争後の国際社会における反戦平和、人道主義と人権尊重主義が広がっていく時期でした。
19 “溶鉱炉の火は消えたり” ―八幡製鉄所のストライキ―
陸海軍拡張の心臓部で
一九二〇(大正九)年二月五日、その日は朝から冷たい雨が降りしぶいていました。この日、日本重工業の基地北九州の一角にそびえたつ官営八幡製鉄所の煙突は、朝から煙りをはかず、七十万坪(約二万三千百四十ヘクタール)の工場敷地には、労働者の影もまばらでした。翌六日付の『大阪朝日新聞』は、
「八幡製鉄所の同盟罷工
一万三千の職工業務を投げうち
大鎔鉱炉の火はことごとく消え
五百の煙突けむりを吐かず」
という大見出しで、この日本最大の工場に大ストライキがおこったことを報道しました。
官営八幡製鉄所は、日清戦争の講和条約で清国から二億テール(約三億円)の賠償金をとり、これの大部分を陸海軍拡張費にあてたとき、その一部を創設費にまわして、天皇制の軍事的要請のもとにつくられた工場でした。当初兵器生産を主とし、かたわら鋼材生産(多くは鉄道用)が目的でした。一九〇一(明治三十四)年十一月、伊藤博文の手により、第一溶鉱炉に火がいれられ操業が開始されてから十九年間、一度も消えたことのない火が、ここにはじめて消えたのです。陸海軍拡張の心臓部である官営工場が大ストライキにはいった報道は、それまでのどのストライキよりも、世の人びとをおどろかせました。政府や資本家たちがおどろいたのはもちろんです。
八幡製鉄所は、ドイツ人技師トッペの技術指導で、中国の大冶鉄山から良質な鉄鉱石を輸入し、筑豊炭田の石炭をコークスの原料炭として生産を開始しました。のち大冶には多額の借款をあたえ、さらに悪名たかい対華二十一ヵ条要求で、この鉄鉱石を独占しました。朝鮮の植民地化がすすむにつれて、国営にして朝鮮の鉱山からも良質な鉄鉱石を八幡にまわしました。こうして、八幡製鉄所は、一九一三(大正二)年には、日本の全銑鉄生産高の七三パーセント、全鋼材生産高の八四パーセント(三十七万五千トン)をしめ、軍需生産の主柱となりました。製鉄所ではたらく労働者も、一九〇一年四千人から一九一三年一万三千人、一九二〇年二万七千人と増加していきました。
友愛会と労友会
日本の製鉄労働者は、ながいあいだ、労働条件の劣悪さと低賃金に苦しめられてきました。それが八幡のような官営になると、何段階もの複雑できびしい身分制(職階制)にしばられ、職工長でさえも官庁身分の雇員以下の地位におかれるようなありさまでした。労働時間は、十二時間昼夜二交代制がつづけられていました。
さて、ロシア十月革命や米騒動ののち、労働者のたたかいが高揚してきたので、八幡の労働者たちもふるいたちました。八幡製鉄所に友愛会八幡支部がつくられたのは、これよりさき、一九一七(大正六)年六月でした。ところが、ほとんど活動らしい活動をしないまま、月日がすぎてしまいました。それで、友愛会とは関係のない据えつけ工場の西田健太郎という二十五歳の一青年労働者が、待遇改善の火ぶたを切ることになるのです。西田は、佐賀の甲種工業学校を卒業し、工手という身分の低い職種でくるしんでいたのですが、一九一八(大正七)年秋ごろから、活動を開始しました。かれは、ひそかに、仲間たちに、
「もっと待遇をよくしようじやないか。食堂、浴場、便所を改善してもらおうじやないか」
と、といてまわったところ、多くの労働者たちがこれに共鳴してくれました。翌一九一九(大正八)年夏、かれは十人ほどの仲間だちと、たたかう労働組合をつくろうとしましたが、会社がわにわかり、たちまち解雇されて、郷里の佐賀に帰りました。
西田と入れかおるように、八幡市出身の浅原健三という二十三歳の青年が、東京から八幡に帰ってきました。鉱夫のむすこに生まれた浅原は、少年時代に、渡り鉱夫の経験があり、のも上京して日本大学専門部(夜間)の法科に学び、いつかしら、労働運動に心をひかれるようになりました。かれは、郷里で労働運動をはじめようと思って、八幡に帰り、木戸料十五銭の労働問題演説会をひらいたところ、新聞がこれを大きく報道してくれました。西田健太郎は、これを新聞で読むと、さっそく八幡へ浅原をたずねていき、八幡に労働組合をつくることで意見が一致しました。ふたりは、夜もろくろく眠らずに、かげまわりました。そして、八幡製鉄、九州製鋼、旭硝子、安川電気など、横断的に約千名の労働者を組織し、一九一九(大正八)年十月十六日、日本労友会を発足させました。会長には浅原、副会長には西田が選ばれました。
いっぽう、労友会の組織に刺激されて御用組合的な企業内組合結成もすすめられ、まもなく八幡製鉄所内には職工同志会(会員三千人という)がつくられました。
第一欠ストに決起
八幡製鉄所では、年の瀬のおしせまった一九一九年十二月末に「職工規則」を改め、明年二月一日から時間外勤務を厳重に規制すると発表しました。ところが、ほとんどの労働者が超勤手当を当てにしてくらしてきたのですから、その規制は、大動揺をひきおこし、不満の声がみなぎりました。かねてから闘争準備をすすめていた労友会では、翌一九二〇(大正九)年一月、浅原会長が単身上京して、やはり上京中の製鉄所長白仁武と会見して、
「会社がわが自発的に職工の要求をいれないと、公然と要求書が提出されますぞ」
と、勧告しました。しかし所長は耳をかさず、会談は決裂しました。浅原は、すぐ八幡の同志に暗号電報で、「開戦ヲ準備セヨ」と打電し、自分も八幡へいそぎました。
二月四日朝、吉村真澄ら労友会の幹部四人は、製鉄所事務所で中川次長代理の竹下工場課長らにあい、一通の「嘆願書」形式の要求を提出しました。要求事項は、つぎのとおりです。
(一)、臨時手当および臨時加俸を本給になおして支給されたい。
(二)、割増し金は従来三日以上の欠勤者にたいしては付けられなかったが、これを廃し、日割りをもって平等に支給されたい。
(三)、勤務時間を短縮せられたい。
(四)、住宅料を家族をもつものには四円、独身者に二円を支給されたい。
(五)、職工の現在賃金にたいして三割を増給されたい。
しかし、製鉄所がわは、この四人を代表者とはみとめず、嘆願書の受理を拒否しました。その
夜、駅前の松屋旅館で労友会の幹部会がひらかれ、労働者の闘争を触発するため、三隊の行動隊が組織されました。翌二月五日、二万数千名の労働者が、労友会の指導のもとに決起し、消えることのなかった溶鉱炉の赤い火が、ついに消されたのでした。
この日早朝、人夫に変装した西田健太郎は、わらじばきで、製鉄所構内にもぐりこんで、演説してまわりました。交渉のすえ、七日夕刻までに回答するという所がわの言質を得て、労働者たちは歓声をあげながら、製鉄所を見下す豊山公園に向かってデモ行進をはじめました。さらに、夕方になると、夜業勤務に出社してくる労働者たちに、門外で「ストライキに参加せよ」とよびかけ、不夜城をほこっていた製鉄所は、夜半まで、なお暗黒につつまれていました。
はげしい弾圧に抗して
治安当局は、このストライキを鎮圧することにし、小倉・若松・門司の各警察署から、警官隊がぞくぞくと、八幡に動員され、憲兵も出動しました。八幡には、警官隊があふれ、戒厳令下におかれたかのようでした。はやくも五日午前十時、労友会本部がおそわれ、会長浅原健三、副会長西田健太郎らが検束され、めぼしい労働者たちも捕えられ、その数は三百人をこえました。夜おそく、役付工など一部復業した労働者によって、溶鉱炉の一部に火が入れられましたが、作業は、六日も七日もなお停止状態でした。所がわでは、七、八両目を臨時休業にすると公表し、賃金、手当の改善については、予算を議会に提出中というだけで、具体的にはなにも回答しませんでした。
はげしい弾圧のため二月八日、労働者の結束はくずれ、翌九日になると、ほとんど全員にちかい労働者が就業し、五百本の煙突はふたたび黒煙をはきはじめました。しかし、労働者の不満はくすぶりました。福岡の坑夫協会、総同盟友愛会本部は、労友会に応援を申しでてきました。そこで、労友会は態勢を建てなおし、ビラで「再罷工」をよびかげました。これは労働者たちに大きな反響をよび、二月二十三日の夜からサボタージュがはじまり、翌二十四目吹雪の朝からは、二万五千名が、いっせいに職場を捨て、ストライキに突入しました。
翌二十五目、製鉄所はロックアウト(エ場閉鎖)を宣言し、在郷軍人の労働者がかりあつめられて入所しました。警察は、はげしい弾圧をくわえ、会社がわは、切りくずしにやっきとなりました。
労働者はしだいにストライキをつづける余力がつきていき、三月二十日、八幡の大ストライキは、惨敗のうちにおわりました。製鉄所は二百二十四人の首を切り、裁判所は、「治安警察法違反、騒擾罪」で、浅原ら七十人を起訴しました(うち二十九人が有罪)。浅原は控訴審で無罪となりますが、実兄の鉱三郎は懲役一年六ヵ月の刑をうけました。このため、労友会も、まもなく壊滅してしまいます。
四月上旬、製鉄所がわは、八時間三交代制をはじめ、労働者の要求をほとんどいれた「職工優遇案」を発表しました。犠牲のおおかったストライキも、けっしてむだではなかったのです。なお浅原健三は、のち北九州労働運動の立役者から無産党の代議士、さらに戦時中は労働者を裏切って軍部とむすぶ労働ボスに転落しますが、このときは、かれも全力をあげて、運動に身をささげていたのでした。(引用ここまで)