愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

国体護持のためには男も女もなかった!弾圧のキーワードは「公益のため」!これは戦前前後一貫している!

2013-10-28 | 天皇制

いよいよ、以下の資料の最後の部分です。これは、大日本帝国憲法体制=国体護持の侵略戦争遂行のためには、男を弾圧するだけではなく、女も弾圧の対象とされていた事実について明らかにすることです。このような事実を暴くことは、躊躇いもありますが、すでに文書にされていることです。ネットの中に、こうした事実を掲載しておくことは、それなりに意味のあることでもあります。 

しかし、それにしても、わずか、80年も前の日本では、このような人間として恥ずべきことが、「天皇のため」という思想と論理のために、正当化されていたのです。この根源にあるのが大日本帝国憲法とそのための諸装置(上部構造)にあることは明瞭です。しかし、このことをどれだけ国民的知見として、現代日本は共有しているでしょうか。

日本における人権と民主主義、平和主義を実現するための血みどろのたたかい、憲法第97条の「過去幾多の試練」の文字通りの実態が、ここにあります。このことを国民的財産とするために、本来は政府(国家)とマスコミは尽力すべきです。当事者である共産党も、ネット社会にあって、この事実を国民に投げかけるべきです。そのことが、日本の民主的発展に貢献できることは明らかです。

しかも、このような日本における人権・民主主義問題について、きちんと総括もしないくせに、中国や北朝鮮の人権問題を垂れ流すことで、中国と北朝鮮の「脅威」と「人権侵害国」として国民の目を向けさせているのです。これは権力者の常套手段です。しかも、日本とアメリカの安全保障政策と結びつけることで、憲法改悪の土壌づくりをしているのです。更に言えば、このような「手口」に協力加担しているメディアがつくる日本の「風潮」に、渇を入れること、それが、今、かなりの度合いで大事ではないかということです。

そこで、以下の書物と合わせて、参考にしていただきたいものとして、女性の活動と、その弾圧について書かれたものとして、広井暢子『時代を生きた革命家たち』(新日本出版社98年6月刊)を紹介しておきます。第一部は小林多喜二について、第二部に登場するのは無名の女性。その名前は、伊藤千代子土屋文明の教え子)、高島満兎、田口ツギ、田中サガヨ、飯島喜美、平林せん、安賀君子、赤塚正子です。この記録の大きな意味は、無名の女性に光を当てたことにあると思います。以下ご覧ください。

反戦平和の信念を貫いた共産党員、高島満兎とは?  2005年8月20日

コンパクトに「闘争·死」と刻み 獄死した飯島喜美とは?  2005年8月18日

それでは、森村誠一・下里正樹・宮原一雄『日本の暗黒 実録特別高等警察3』(新日本出版91年1月刊)をご覧ください。

18歳の女性に、国家が何をしたか、ご覧ください。その国家の言い分、理由、口実は、繰り返しますが、天皇のため、国体護持のため、戦争遂行のため、でした。今風に言えば、「公益のため」、でした。このフレーズさえあれば、何でもアリでした。国家が、臣民としての人間をどのように考えているか、明瞭でした。

実は、この「公益」論については、次の記事とします。それでは、前回のつづきです。 

大検挙

 東京市電気局の自動車(バス)車掌をしていた浅沼(瀬野)雪香は、四月十六日午前九時に新宿・角筈のアパートを出た。浅沼の当日の勤務は午後一時半からの遅番であったが、三・一五で検挙投獄された自動車運転手滝嘉蔵の妻しず子を激励しようと思った彼女は、早めにアパートを出た。一家の働き手を獄中に奪われて、一歳の乳飲み子をかかえた滝しず子は生活苦にあえいでいた。浅沼雪香は、職場などで集めた救援カンパを、一刻もはやくしず子に渡したかった。彼女がしず子の家に入ろうとした時、後方から尾行してきた三人の特高警察官がおどりかかった。そのまま検挙された浅沼雪香は、淀橋署からすぐ本富土署に身柄を移された。警視庁の中川成夫、須田勇両警部、木内検事の三人が彼女と対面した。 

 「お前はいつ入党したか」「お前のバックはだれだ。連絡線をいえ」

 彼女が黙っていると、「そうか、名無しか、からだにいわせてやろうか」。中川成夫がすご味のある笑顔になった。往復ビンタの雨あられである。つづいて取調室の床に何回も腰車で投げ飛ばした。彼女はけんめいに耐えた。

 浅沼雪香は市電自治会婦人部の中心活動家の一人であった。一九一一年三月東京・八丈島に生まれ、一九六〇年十月十二日、日比谷公会堂で演説中に右翼少年山口二矢に刺殺された浅沼稲次郎社会党委員長とは、いとこ関係にあたる。彼女は幼少から従兄の影響を強く受けた。一九二二年東京の西村高等女学校に入学するが、若い先生をいじめる校長に抗議して中途退学。弱い者の味方になる弁護士になろうと勉強するが断念し、一九二七(昭和二)年四月、東京市電気局バス車掌に就職、警視庁近くの桜田門支所に配属された。正義感に富んだ雪香は、市電自治会に加盟し組合運動に参加した。

 職場には女性百三十人、男性百二十人の労働者がいた。彼女は「生理休暇二日よこせ」「オーバー、下着を支給せよ」など、職場要求実現の先頭に立っていた。集会での演説。労働歌の指導。ビラの配布。彼女は「労働運動の花形―浅沼女史」と「読売」など各紙に報道され、特高警察官の憎しみの的となっていた。                

  三山今や紅葉して 利根の流れの清き秋

  未来を告ぐる青年の 胸の血潮の赤色旗

  上毛の地にひるがえす 同志囚る十四人

注:「群馬共産党の歌」の作詞者は一九二三年の第一次群馬共産党事件の指導者の一人、高津渡。かれは一九〇〇年政友会代議士高津仲次郎の息子として生まれ、一高から東京帝大に進み、革新の運動に参加。一九二三年九月、関東大震災時に巣鴨刑務所に投獄され、獄中でこの歌を作詞した。一九二六年二月九日結核で死去。二十六歳

 一九二九年の春、浅沼雪香が職場の仲間とともに歌った「群馬共産党の歌」である。

 「メロディーは一高寮歌と同じでした。職場が警視庁のすぐ近くなので、私たちが歌うと、聞こえるのですね。『聞け万国の労働者』……の歌を歌っている時は特高は黙っていたけれど、『ああ革命は近づけり……』と革命歌を歌うと、ばらばらと踏み込んで来て検束していくのです。ところが革命歌は歌っていると気分がいいから、労働者がみんないっせいに歌うんです。皇居を見ながらお堀端で歌ったこともありましたわ」

 浅沼雪香(80)の回想である。

 「制服改善や生理休暇をかちとり、賃金は下げさせなかった。月四十二~四十三円の収入でした。特高は『そんなに高くて、またストやるのか』という。連中は私たちのところから押収したマルクス主義の本などをみんな読んでいるのです。職場に出入りしていた特高警察官の一人は、ついに私たちの主張に共鳴し、警察官のなかに仲間のグループを作ったのです。上部に分かり、かれは首になり、夕張の炭坑に行ってしまう……そんなこともありましたよ」

 浅沼が党と接触したのは一九二八(昭和三)年七月初めのことであった。当時新大久保にあった浅沼のアパートに新宿車庫車掌の佐々木極がやってきた。

 「あら、私たちの組合を指導なさっている佐々木さんじゃないの。今日はまたかしこまってなんですの」「浅沼さん、これを読んでみないか」

 佐々木は懐から八つ折りにした「赤旗」十六号を差し出した。

 「あら!これが持ってるだけで治安維持法違反になる『赤旗』なの。組合員のみんなからいい指導すると評判の佐々木さんは党員でしたの!そんな佐々木さんが勧める新聞ですもの、購読しますわ」

 浅沼は二つ返事でOKを出した。佐々木が帰ったあと、彼女は「赤旗」十六号をむさぼり読んだ。

 「日本共産党が私を迎えにきたんだ……と思いました。読み終えた時、からだ中に新しい血がめぐり、わきだしたようで、全身がシーンと震えてくるのです。当時、田中義一内閣は中国大陸へ侵略戦争を拡大し、農村は疲弊、娘の身売りが目立ち、労働者は仕事がなく、あっても低賃金と長時間労働、そのうえ無権利で奴隷的な状態におかれていました。こうした現実を打開できるのは日本共産党しかないと……私はいつしかそう考えるようになったの。そんな私を党の責任者だった佐々木さんはじっと見ていたのね」「何回かの来訪のあと、佐々木さんは『もっと勉強したいなら日本共産党に入ることだ』といわれ、私は昭和三年七月十五日党創立六周年日に党費二円を納めて入党しました」

 こうして浅沼雪香と「赤旗」の“共同生活”が始まった。-

 浅沼は心覚えに書いた手記をもとに語る。

 「三・一五から四ヵ月のちに私は入党しました。『赤旗』が配達されるのをいまか、いまかと待ち、届くと何回も読み返して暗記してしまった。『赤旗』を読み終えたら、かんで飲み込んでしまえと佐々木さんに言われていたので、その通りにしました。焼くと火鉢のなかに証拠が残るからです」「『赤旗』が定期に配達されるようになり、内容を暗記するまでの間の隠し場所にはずいぶん苦労しました。ボロの中にしまいこんだりして……特高がちょいちょいとアパートをのぞきにきたが、発見されませんでした。『浅沼、要領がいいな、またどっかに隠したな』と、特高は捨てゼリフを吐いて出て行きました。アパートが危険と思えるときはデパートの便所の中で『赤旗』を読みました。トイレで繰り返し読み、暗記し、終わると順にかんで飲み込んでしまった。昔の紙は糊がついているので飲み込むのが大変でした。なかなかのどを通らない。苦労しました。時間がかかるので、ドアの外から『いつまで入っているのよ』『早く出てよ』とドアをたたかれるありさまでした。『赤旗』のほか党文書はこのように全部暗記し処分しました。オルグたちに『何か書いてあるか』と聞かれたとき、スラスラと内容を話したのでびっくりしていました」

 当時十八歳の日本共産党員浅沼雪香に、中川成夫らの特高警察官が襲いかかった。

 浅沼雪香の「手記」からの引用―

 「忘れもしないよ四月十六日。中川警部、須田警部、木内検事は拷問係にメチャメチヤに殴る、

 蹴るをさせたあと、木内検事は涙を流して、泣き落とし戦術だ。『ぼくもあんたと同じような年ごろの娘をもっているけれど、こんなにやられたら見るに忍びない。あんまり強情だとたたく方も疲れるから、早くこの書類にハンコを押してよ』とポロポロとっくり涙を流して私を説得しようとする。私か『いや』と答え沈黙していると、中川、須田警部は『叩け』『ロープで絞めろ』『向こうずねを蹴飛ばせ』と拷問係に指示する。拷問のなかで一番我慢できるのは『百叩き』です。 竹刀でビシッビシッとたたく。平均して背中をたたく。最初は痛い、三十回ぐらいまではビリビリと痛い。しかし、それ以後になるとからだが暖かくなって、眠くなる。すると特高は水を頭からぶっかけるのです。また『百叩き』を繰り返す。別の日には椅子に座らせ、ロープでぐるぐると巻いて締め上げる拷問だ。これは唇が紫色になって、ついには息ができなくなる。すると少しゆるめる、唇の色が回復するのを待ってまた締めつける。最後は気絶してしまう。痛かったのは手の指の間に二本の大きな万年筆を入れて締め上げる拷問です。これはとても痛い。中川、須田警部らが代わるがわるに、『あなたが、かの有名な浅沼女史ですか、お近付きの印に握手しましょう』といい、両手で私の五本の指を握り締める。骨が砕けたような感じで、激痛のため十日間ぐらい箸が持てない。こんな拷問が朝九時ごろから四時ごろまでやられた。はじめは拷問をやられると、『痛い』と大声で叫ぶ。それが路上の通行人に聞こえる。それが困るので、屋上か地下室に連れていって拷問する。ある日、ついに私は真っ裸にされた。私の裸身を四~五人の特高警察官と検事がしげしげとながめたあと、『浅沼女史、なかなかきれいな餅肌じゃないか。おっぱいもふっくらとして、美味しそうじゃないか』『こんなきれいなとこ、たたくともったいないなあ、傷になったらお嫁にいけなくなるぞ』とかいって私のからだ中を触りはじめた。私は「人間の仮面をかぶった獣!」と大声で叫び、唾をひっかけたり、特高の手や腕にかみついて抵抗した。すると、私を素っ裸のまま椅子にぐるぐると縛りつけ、ますます陰湿になってくる。やわらかい肌を触ってはつねる、なでながら『ああ、いい肌だねえ。このおっぱいも吸ってみようか』……と。その合間に中川警部が、『もうここらで、話したらどうや、着物も着せてやるから、どうだ』という。横合いから木内検事が、また涙を流しながら、『浅沼女史がかわいそうだ。早く解放してあげたい。この書面にハンコついてくれ』と泣き落としでかかってきました」

 しかし、浅沼雪香は供述に応じなかった。特高警察官は、彼女が女性であるがゆえの拷問をさらにエスカレートさせた。      

 浅沼雪香の手記は続く―。                  

 「私のからだは椅子にしっかりと結びつけられている。身動き一つできない。特高は、こんどは股の奥の方に手を入れる。それを楽しむようにくり返す。特高たちは口ぐちに、『もっとお近づきになろうよ、浅沼女史』『やわらかい肌だな、どうだ……感じるか』といい、はずかしめの拷問に出た。私はすかさず、『けだもの、やめろ!』と大声で叫んで、中川、須田警部や木内検事に唾をひっかけて抗議した。すると特高どもは面白半分に性器に指を入れ、恥毛を引っ張ろうとする、煙草の火を押しつけようとする……全身ありったけの力を出し、声を張り上げて抵抗するが、恐怖と怒りのために私ののどはしだいにからからに渇き、もう唾も出ない、言葉も出ない。私は特高警察官の一人に軽蔑をこめて言ってやった。『あなたさまは、奥様にも、娘さまにもこういう仕打ちをなさるのですか!』 瞬間、その特高警官は真っ青になった。いらいその特高は私のからだに触らなくなった」

浅沼は四・一六検挙後二十九日間で本富士署を釈放となる。手記は続く―

 「外交官やっていたおじさん、姉ら三人が本富士署に迎えにきた。おじさんがお土産を特高に渡すと、急にえびす顔になり、『あのう、いいとこの娘さんとも知らずに、ちょっときつく取り調べた。お宅の娘さんはいい人だ。あとについている大学生たちが悪い、二度といっしょにならないようにいってくれ』とまったくのウソを平気でいう。私は出る条件として、“拷問はなかった”という趣旨のウソの誓約書を書かされていた。言葉で抗議はできない。そのウソつき特高をにらみつけてやった。治安維持法と特高制度はひどいものだと思う。ひどく殴られたため、私の左の耳は今でも聞こえない。一番うれしかったことは親が私の共産党貝としての活動を、『あの娘のやっていることはまちがっていない』といって支持してくれたことだ」

 浅沼は本富士署を出ると、ただちに活動を再開した。

 一九二九年六月二十五日、現実同盟と市電自治会が合同し、「東京交通労働組合」が結成(一万三千人)された。浅沼雪香は初代婦人部長に推挙された。東京・芝、協調会館での出来事である。火のような熱いものが彼女の胸底にたぎっていた―。

 密室で凄惨なエロテロと対決した浅沼雪香。彼女のたたかいぶりは、のちに警視庁纐纈弥三元特高課長に「女性思想犯にはほとほとまいった」と回想させるほどのがんばりであった。

 以後、敗戦までの十六年間に、浅沼は十八回検挙され獄中生活の連続であった。戦後も北海道・浜頓別で反戦平和の活動を続け、党勢拡大の先頭にたち、今日にいたっている-。

注:エロテロとは「エロによるテロル」の意。戦前、婦人活動家のあいだに使われた表現である。引用ここまで

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大日本帝国憲法・国体護持のための侵略戦争遂行に人権を否定することは当たり前!その証拠はこれだ!

2013-10-28 | 天皇制

以下の資料は、大日本帝国憲法の規定する「安寧秩序ヲ妨ケ」「臣民タルノ義務ニ背」いたという理由で、「体罰」を受けた証拠の資料です。

 

森村誠一・下里正樹・宮原一雄『日本の暗黒 実録特別高等警察3』(新日本出版91年1月刊)

 

このような事実はたくさんありました。天皇制権力による「体罰」を受け、命を奪われた臣民、或いは心身を傷つけられた臣民に対して、謝罪も補償もありません。したがって教訓化もありません。国家として、証拠を公開したという話は聞いたこともありません。そのような政府が、戦後ずっと政権を担当してきたのです。国民から支持されて、です。

 

政府が教訓化していれば、教科書にも書かれ、安倍首相が靖国神社参拝に意欲を持つように、顕彰されているはずです。命を懸けて反戦平和のために、国民の人権と民主主義の擁護のために活動し、そのために命を落とさねばならなかった、犠牲になられた方々に尊崇の念をもつはずです。しかも、これらの方々がいたからこそ、戦後日本国憲法が制定され、今日の日本の礎が築かれ、繁栄がもたらされたことに感謝しなければならないと思います。

 

しかし、戦後の事態は全く逆の方向で動いてきました。それもこれも、このような事実を、今風に言えば、「擬装」して、スリカエ・ゴマカシて、はじめて成り立ってきたことです。これぞ、不道徳の極みと言わなければなりません。

 

マスコミも、閣僚や国会議員たちの靖国神社参拝に対する中国や韓国の抗議の声を報道するばかりで、このような日本国臣民の犠牲と、犠牲になられた方々の事実、抗議の声などについては、ほとんど、というか、いっさいというか、報道していません。その事を反映して、また閣僚の発言にもあるように、日本国民の中には、中国や韓国に対して、「内政干渉をするな!」という、ある種のナショナリズム感情を噴出させる効果をつくりだしているのです。このことが、特定秘密保護法など、日米軍事同盟容認の、憲法改悪の土壌づくりに貢献しているのです。このことが今後も野放しにされていくことは、日本が国際的に孤立していくことになることは明らかです。同時に再び国民の人権を奪い、日本の民主主義を破壊すること、その先に、日本が再び戦争のできる国に変貌し、同じ過ちを繰り返すことになることは、安倍自公政権の主張や政策をみれば明らかです。

 

人権と民主主義が成熟した国ニッポンというのであれば、このような世界的に恥ずべき人権弾圧の実態について、しっかりと総括とけじめをつけるべきです。というような問題意識を持っているがゆえに、以下の資料を2回に分けて掲載することにしました。以下ご覧ください。

 

第五章 大検挙  海老責め

·一六事件 弾圧の端緒をひらいた菊地克巳追捕について、纐纈弥三はのちに米CICあて報告書の中でこう書いている。

「(警視庁特高課は)意外に重要な書類の入手を喜び、東京地方オルガナイザー菊地克巳の取調べに依って再建共産党の全貌を知ることが出来たのだ。即ち中央執行委員は佐野学三田村四郎鍋山貞親市川正一 の四人、中央事務局に砂間一良 、間庭末吉が据わり、その補助に杉本文雄、戸敷行盛があてられていた……」

 纐纈自身の回想-。

「菊地克巳から得た情報と物証で、·一五事件 -のように再び一網打尽の検挙の見通しが出たんだなあ……あとは順々にパクって裏を取っていけばいい……、こんどこそは党の最高幹部を取り逃がさないぞ……とね、それまでいささか意気消沈気味だった本庁の特高課員は、燃えに燃えたものだ」「菊地検挙による大成果で、内務省警保局、司法省検事局の内部にも歓声があがったと聞いている」

警視庁特高課は、一九二九(昭和四)年三月二十一日、党中央全国オルグの任にあった杉本文雄のアジトを急襲した。杉本のアジトは当時、東京・麹町区飯田町三丁目十番地にあった煎餅屋の二階にあった。杉本は検挙された状況を語る。

 「三月二十一日の午後、新党準備会城西支部の橋本二郎がアジトにやってきた。ぼくは当時、市川正一の指導のもとで、間庭末吉組織責任者や菊地克巳らと連絡を取り合いながら、全国の党組織の再建のためあちこちと飛び回っていた……このため、東京を留守にすることが多かった。ぼくは橋本を呼び、留守中の運動の状況報告を聞こうとしたんだ……」「橋本が『このところ連絡が切れちゃってる……どうもヘンだ、何かあるぞ』と口を開くか開かないかのうちに、十数人の警官が奔流のようにどどっと室内へとび込んできた」「私は床にねじ伏せられ、両手を荒縄で後ろ手にしばりあげられた。首にも縄をかけられて……特高警察官は私に向かって『これは江戸時代の高手小手の捕縛術だぞ!』と誇らしげに叫び、日中の往来を麹町署まで、引き立てて行った。江戸八丁堀同心の捕物さながら、白昼の人目にさらし、本人に屈辱感をあたえるわけだ

 杉本の体は麹町署の道場に据えられた。三~四人の特高係が取り囲んだ。「お前の連絡線はどこだ、いえ!」「……」「なに?言わないのか、痛い目にあいたいのか!」「……」「よし、それじゃ、お前のからだに聞いてやる。もう容赦しないからな!

 このときの拷問の傷跡が、いまも八十五歳の杉本の背、腕、腹に残っている。

 「特高は……ぼくの全身を、竹刀でメッタ打ちした……。沈黙を続けていると、両肩をつかみ、立たせて足払いをかける。腰車で投げ飛ばす。それが何十回も続いた……つぎに正座させ、ひざ裏に角棒を差し込むんだ。そうしておいて太股の上を、靴で何回も上からけりつける。これは激痛がする。太股はみるみる倍にもはれあがる。目の玉が飛び出し、心臓が破裂しそうになる。のどか詰まる……息も絶えだえになってもこれが繰り返された……。ぼくのアジトの所在を知っているのは菊地克巳だけだ……ぼくはもうろうとした意識のなかで、『ああ、おれは菊地の手引きでやられたんだなあ』と思った」

オルガナイザー杉本文雄が検挙されたおなじ日の三月二十一日、党中央事務局政治部長・砂間一良 は、東京・日本橋の街頭で検挙された。

 砂間の回想―。

 「私は、党の組織方針を掲載した『赤旗』パンフレットなどを持ち、日本橋のたもとで午後七時に同志に会う約束をしていた……。三越本店前から白木屋(現在の東急デパート)方面へ街路の右側を歩き、日本橋を四~五メートル渡ったところで、十数人の特高がドーツと襲ってきた……両手を後ろ手に回され、手錠をかけられた。そのままタクシーに押し込められ、近くの堀留警察署に連行された」

 砂間は同署地下房にほうりこまれた。砂間一良、獄中十四年二ヵ月の苦難の日々の始まりである―。検挙される六日前の三月十五日、砂間は神奈川県と東京府の境界、多摩川の河原で市川正一、間庭末吉の三人で会議を開き、第四回党大会の開催を決めた。その矢先の街頭逮捕である。

 「三月十五日の会議以後、私の活動の中心は第四回党大会の開催準備にあてられていた……市川さんは党大会を成功させ、さらに『赤旗』を増やし工場や農村に深く根をはった大衆的前衛党をつくろうと考えていた……雄図(ゆうと)直前の逮捕……私は無念でならなかった」

党最高幹部市川正一の片腕ともいうべき砂間を検挙したとあって、警視庁から纐纈弥三特高課長はじめ浦川秀吉労働係長、山県為三、毛利基、丹下政之助警部ら特高捜査のベテランが堀留署にやってきた。

 「お前が砂間一良か」「…………」「おい、ウンとかスンとか言ってみろ。ネタは全部あがっているんだ!」「…………」

 唇を一文字に結び完全黙秘を続ける砂間に、本庁特高メンバーは手をやいた。

 「よーし、やれ!」

 纐纈弥三特高課長のひとことで、拷問が始まった。普通、拷問現場に本庁エリート幹部が姿を見せることはない。むごたらしいテロル“汚れ役”は現場の下っ端にまかせ、幹部はデスクにいるものだ。だが、砂間の時にはちがった。纐纈弥三はみずから砂間と向かい合った。かれは直接拷問を指揮した。このときの体験をのちに砂間は書いている。砂間一良著「治安維持法下の母」(光和堂刊)

 「彼等の間には一定の分業があるらしく、ある者は甘言を弄して誘惑し、ある者は最初からテロ一本槍であった。それが一定の期日をおいて、交互にやってきて、何とか吐かせようとしたのである」「一口にテロ、拷問というけれども、その手口は千差万別である。指の間に太い万年筆をはさんでグルグル回すのは序の口であって、椅子に体をしぼりつけて、なぐる、ける。あるいは柔道場や剣道場に引き出して、数人でとっては投げ、とっては投げ、気を失うと活を入れて、また投げ飛ばす。木剣や竹刀で滅多やたらにぶちのめす。何しろ相手は心から(共産党員を)国賊と思い、不忠者と信じているのだから、人間らしいいたわりなんか、みじんもない。足を紐でくくって、逆さ吊りにし、気を失うと水をぶっかけて竹刀でなぐる。私は一度も正気で監房に帰ったことはない。いつも意識を失ってかつぎ込まれたのである」「朝、目をさますと体中が痛む。頭をもち上げようとしても頭が上がらない。後頭部がぶっ切れて血を噴き、それを煮しめたような手拭でしばって、寝かしておくと頭の血が枕にベッタリついて枕ごともち上がってくるのである。ある同志は膀胱に竹のヘラをさしこまれてグルグルまわされ、痛くて小使が出なかったという

 ここに出てくる「ある同志」とは、砂間の記憶では九州出身の男性党員であった。

 砂間の証言。  

 「特高どもは、九州の同志の下着をはぎ取り一人の特高がかれのペニスをにぎりしめ、もう一人が竹で作った「耳かき」のような細いヘラを尿道に突っ込むんだ……ヘラの先がボウコウに達したところで竹ヘラをグルグルと回す……「自分はいくつもの責め苦を受けたが……これには参った。竹ヘラを回されると身体が飛び上がるほど痛かった』とその同志は言っていた

 砂間の手記に戻る。-‐

「日本の警察には徳川時代から拷問の責め道具がそのまま引継がれていて、それを治安維持法 の被告にたいしフルに使ったのである。私か一番苦しかった拷問は『海老め』の拷問であった。両手を背中にまわし手錠をかけて、足を結わえ、手と足を麻ひもでつないで、ちょうど海老の腹をひっくり返したように、じわじわと責めあげていくのである。背中がメリメリと折れるように痛む。腹が太鼓の如くはって今にも破裂しそうになる。しばしば 息がつまって窒息しそうになる。それは痛いとか苦しいとか、到底言葉に表せるものでない」

 「海老責め」の拷問は「吊るし責め」とならんで江戸時代からの公刑の一つである。縛りつけられピッと背骨を曲げた格好が、海老に似ているところからこの名がついた。「海老責め」は、江戸小伝馬町牢屋敷内にしつらえられた拷問蔵でおこなわれた。この蔵はしっくい塗りごめのぶ厚い壁で仕切られ、中に入れられると泣き声も、悲鳴も外部に一切もれず、残虐な責めは囚人たちの恐怖の的となっていた。

 「(海老責めは)むりな姿勢なので、始めはともかく、時間がたつと徐々に苦痛が増大してゆき、非常に苦しむ残酷な拷問である」「『海老責め』は全身の血行障害を起こし、動きもがくこともできないし、痛みをまぎらす方法も全くない」「縛って三十分以上経過すると、全身はうっ血で真赤になり、脂汗を噴きだし、意識が混濁してくる。一時間も経過すると全身が気味悪い紫色に変色し、さらに時間がたつと暗蒼色になっていく。血管はふくれあがり、呼吸は不規則になり、やがて口や鼻から血潮が、とめどなく流れしたたり仮死状態になる」「立ち会いの医師は死の一歩手前、ぎりぎりの線まで待ち、拷問の中止を申し出る。気絶すれば、薬と水を与え蘇生させて牢にかえす。絶命しても、役人や医師には何のとがめも責任もない。しかし記録によると、これまでたえた者は、ほとんどなかったといわれている」名和弓雄「拷問刑罰史」(雄山閣刊)。

 ロープに縛られた砂間は、生死の境をさまよいながら、意識を失っていった―。

 「拷問のうち、殴る、蹴る、唾を吐きかけるなどは序の口。海老責めだけはいま思い出すもぞーとする…これにかけられると、一時間しないうちに気絶してしまう……。水をぶっかけられても正気にもどらない。ぐったりして目が覚めると地下房のなかだった……冷たい、暗やみの中で意識が戻っていく時の、身体の各部が分解してしまったのではないか。下半身が引きちぎられたまま、上半身だけを転がされているのではないか、という恐怖……」「前の拷問の痛みと傷がよくならないうちに、また海老責めがくる。ロープが筋肉にぎりぎりと食い込み、極限にたっした痛みに意識はもうろうとなる。その時に私の耳元で特高が叫んだ……。

『中央幹部はどこだ』『お前たちは天皇陛下にたいしてなにをしている!天皇の命令によりぶっ殺してもいいんだぞ!』『この野郎、お前なんかが、生きているのがどうかしている』 

反戦と民主主義を主張する日本共産党員を、国賊、非国民扱いだ。全体を指揮する纐纈特高課長は一番冷酷なもんだ。かれの表情を思い出すといまだに全身が震えてくるほどの憤りを感じる

 砂間の証言である。

 砂間への拷問は三月二十一日に検挙されてから五月半ば市ケ谷刑務所におくられるまでの約四十日間つづいた。砂間は手記に書いている。

 「こうした拷問、テロをつづけながら、弱い同志がその責め苦に負けて何か一言しゃべると、誰それは素直に自供した。貴様がどんなに口を固くしても、傍証がいくらでもあるのだから、有罪は確実である。素直にしゃべるか、しゃべらないかによって、情状酌量で罪が軽くもなれば重くもなる、などと拷問の合間に口説く」「毛利基警部が私を呼び出し、『どうだ砂間、お前はそんな情けない姿で親に会わせる顔があるか』と口を切った。私は髪もヒゲもぼうぼうとのび全身コブや傷あとだらけで、服は裂け、血がこびりついていて、いかにも情けない姿をしていたが、『こんな体にしたのは、お前達ではないか、親だろうが、誰だろうが、いつだって会う』とタンカを切った。毛利は、『よし、それなら会わしてやろう』と堀留警察の地下の調べ室へ父親をつれてきた。私はまさか父が来ているとは夢にも思っていなかったので、おどろいた。父には、『自分は何も悪いことはしていないのだから心配することはない。正義は必ず勝利する。最後に笑う者が最もよく笑う、という言葉がある』といって、なるべく心配させないようにして帰した。父は、金など差し入れて、体を大切にするように、といって帰った」「毛利が『ようし、砂間の口を割らせるために、この親爺を利用してやれ』と、父を連れて堀留警察へきたのである。しかし、毛利の計略は失敗に終わった。警察の取り調べは、拷問、テロ、甘言、誘惑、あらゆる手段を弄して、その後もつづいた。そして私がしゃべる、しゃべらないにかかわらず、周囲の者が供述しているので、証拠は十分とばかり、五月の半ばになって私は市ヶ谷刑務所に送られたのである」

東京・堀留署に留置された砂間一良にたいする拷問を、のちに毛利基は語っている。毛利基、昭和十七年九月十五日「九州各県特高課々僚会議二於ケル体験談」。

 「その時砂間一良というのをいま警視庁を辞めて神戸にいる浦川という人が調べていた。この人は特高警察官であり、刑事警察官である有力な人であった。当時、私の上にいてやっていた。

この人が砂間一良を締めて締めて締め上げても砂間より何一つのネタが出ないので、私に引継いだ。徹底的にやっつけんといかんという事であった」「日本橋の堀留警察署に調べに行った……彼(砂間)の骨に穴があき、包帯をしていた。鮮血だらけであったので、医者を呼んで手当をした所が、(砂間は)余計な事をするなと反対した」

浦川とは当時、警視庁特高課の浦川秀吉労働係長のこと。“テロの川”のあだ名を持ち山県為三とならんで拷問の荒っぽさは有名であった。連日の責め苦に、身体の反転もままならず、うなっていた砂間の目に留置場のはめ板にツメで書かれた女文字の短歌の一首-。

いとはしも 革命に捧げし身なりせば この恋永久に秘めんとぞ思う

 -あの人がどんなに愛しくてもこの恋は胸に秘めておこう。いまは革命運動に捧げた身だから。

 恋人への思慕をうたった若い女性の短歌であった。

 「この可憐な一首をなんども口ずさんでねぇ……ここにも頑張りぬいている同志がいるんだ。自分も負けるもんかと。この歌はいまでもわすれられないよ」と砂間は回想する。

 一方-。

砂間検挙の報を聞いた間庭末吉は、青山墓地付近にあった砂間のアジトに駆け付け、党文書や謄写版を砂間宅から他所に移した。さらに、蔵原惟人(現日本共産党名誉幹部会委員)がかけつけ、アジトの中を入念に点検し、家宅捜索の機先を制した。一斉検挙の決め手を欠いた警視庁特高課はつぎに間庭をねらった。菊地克巳が四谷署へ連行される時、投げ捨てた「マッチ箱」から出てきた暗号紙片が間庭検挙の糸口となった。暗号を解読すると、紙片には、菊地が「三月二十三日午後六時上野みやこ座で間庭末吉及び立石峻蔵と会合すべき」とあった。特高は上野周辺に間庭がひそんでいると見当をつけ、内偵の網を張った。間庭は東京・下谷区谷中のアジトで検挙された。間庭の取り調べ担当は山県為三警部であった。最初は完全黙秘で通そうとした間庭も海老責めの前に屈した。のちの第二十六回予審訊問調書のなかで間庭は、「警察の拷問により作成された調書に基づけるものであり、且つ警察署内において引続き拷問の脅威の下に検事によって作成され、私は自由の立場から申立てする事ができなかったからであります」旨をのべ、拷問の事実を暴露している。 一九三一(昭和六)年四月六日市ヶ谷刑務所での予審訊問(中里竜判事)。現代文直しは著者による。

 東京・下谷区谷中の間庭末吉のアジトに特高警察官の一群が詰めた。かれらは一階床板をはぎ、シャベルで地面を掘った。間庭の自供通り、素焼きの大きな土製の瓶が出てきた。瓶を開けてみると、暗号による党員名簿、党員証、「赤旗」の全国配布網、入党推薦状、党の予算書、暗号符など党内文書が続々と出てきた。党員証が発行されていたこと、それが三月中旬から上部の指示によって回収されていたことは特高側も先に検挙した菊地克巳の自供によりつかんでいた。しかし、「党員名簿」の存在は、特高の予測を超えるものであった。そのうえ「赤旗」配布網や入党推薦状など党組織の実態をしめす文書まであらわれるとは!瓶の中から出てきた文書に、警視庁特高課は狂喜した。

 砂間一良はいう。

 「間庭は捕まるとすぐ自白してしまった。かれは一九二八年秋、ウラジオストックから帰ってきたばかりで、日本の党が置かれている非合法状況のきびしさが身についていなかった。床下の地中の瓶のなかに入れていたのだから、特高が通常の家宅捜索をしても文書の所在はわからないはずだ。それが明るみになったのは、間庭自身が特高に教えたからだ……」「瓶から出てきた党員証は間庭の独断で党員に発行されたものだった……。多摩川会議の時、間庭は、市川正一さんに『革命的警戒心がない』と党員証発行の誤りをきびしく批判された。間庭もすぐ回収作業に入った。党員証を発行したこと、回収したあと焼却せずに瓶のなかに隠したこと、瓶の在りかをしゃべってしまったことは、間庭の犯した三重の過ちだった」

 当時、警視庁宣房主事をしていた品川主計の回想-。

 「暗号党員名簿の入手は四.一六大検挙の基礎的証拠となった。間庭を捕まえてから半月余りで一斉検挙が可能になった。三・一五事件の時も、中尾勝男がつくった暗号党員名簿の入手が大きな成果だったが……。間庭のつくった党員名簿は棚からボタモチだったよ。私は宮田光雄警視総監や総額君らとバンザーイをやった

 総額弥三元特高課長の証言―。

 「党員がふえ、大衆運動が上げ潮の時など、その組織状況を把握し、あるいは党勢拡大をする以上、事務局としては党員名簿作成はさけられないものだ。党側からみた問題点は、第一に特高側に入手されたこと、第二に暗号を含め、秘匿の技術が稚拙だったということだろうかなあ……」

 元特高官僚の勝ち誇った回想を聞くことは、著者にとって苦痛であった。しかし民主勢力にとっても三・一五、四・一六弾圧から引き出すべき教訓は大きい。総総弥三、品川主計らへのインタビュー中、取材者は腹の中が煮えくりかえり、そのたびに全身に力を入れつとめて冷静さを保った。(引用ここまで) 

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権力の内部告発は厳禁!権力批判を封じるスパイは放任免罪!戦前の特高思想継承の秘密保護法は墓穴へ!

2013-10-28 | 日記

 中国の尖閣への「脅威」、北朝鮮の核ミサイルの「脅威」、「テロ」に対抗するためとする「日米安全保障」上の「特定」の「秘密」を「保護」するための法案が、国会に上程されましたが、このフレーズで、日本国中というか、マスコミが思考停止に陥っているような気がする昨今の日本です。全国紙も地方紙も一応は「知る権利」が擁護できるかどうか、不安や心配を記事にしています。それは読売にしても、産経にしても、同じです。 

しかし、問題は、国民の運動に対する監視(スパイ)活動に対する告発、情報公開も「安全保障」を口実とすれば、「特定」の「秘密」となるのです。だからその「秘密」は「保護」の対象になります。「内部告発」問題については、「知り権利」問題として触れられてはいますが、この視点は、あくまで愛国者の邪論が調べている限りという限定ですが、ほとんどありません。ここに、国民主権に対する最大の挑戦・否定があるのです。

 

まず、このような憲法違反の法案を上程する安倍自公政権に、ノーを突きつけられない日本の民主主義の現状から出発しなければなりません。一つには、憲法の平和主義を使って、安部自公政権の「口実」「根拠」「言い訳」を封じていくことです。二つは、彼らの危険な思想と論理の根拠を暴いていくことです。ということを踏まえて、記事を書くことにしました。以下の記事のポイントは、以下のとおりです。

 

1.「『君主制廃止』と天皇陛下の体制に攻撃を加えるのは日本共産党だけだから」(纐纈)という思想と論理こそ、安寧秩序」の維持、「国体護持」思想です。これを守るためには手段を選ばないという思想です。

2.その手段として使われたのが、内偵線(スパイ活動)であり、情報の隔離・独占でした。「スパイを使うことは治安対策の大きな柱」(纐纈)であったという証言です

3.その活動の典型は、「徹底的取り調べでドロをはかせるのさ」(纐纈)と、人権否定に対する反省も謝罪も教訓も微塵もないことが判ります。それは現在日本においては、現在進行形、いや、このままいけば未来進行形です。

4.「党組織を破壊するうえで、スパイは不可欠の存在」(纐纈)と言いいますが、アジア太平洋戦争遂行のためには、共産党の組織の破壊が不可欠であったことです。このことは人権と民主主義を否定することを意味していたことです。ここに天皇主権を標榜する大日本帝国憲法の人権抑圧装置の本質が浮き彫りになっています。逆に言えば、戦後国民主権を謳った日本国憲法の意義が鮮明になってくるのです。

5.「湯水のごとく機密費を使っても」(纐纈)と、臣民の血税を、このような発想で正当化するのです。このこと現代日本においても継承されています。そうです。「官房機密費」です。マスコミ関係者にもばら撒かれている「機密費」です。

6.「スパイを使う経費として機密費から支出するので、その際管理上、機密費を渡す相手先として、スパイ名は分かる。日記帳を見ればもっと正確な話ができる。なにしろ一日もかかさずつけていたか」(纐纈)と言いますが、勿論、この「日記」の公開は「極秘」です。ここに、今回の「特定」「秘密」「保護」法の本質が透けて見えてくるのです。

7.「ぼくの分だけで月五百円あった。警視庁特高課長になってからは、それよりはるかに多くなった。特高課長の月給は当時百数十円だが、機密費のほうがず-っと魅力だった」(纐纈)ということは、どのように使われているか、不問・極秘ですから、私腹を肥やすために使ったとしても、国民の知るところにならないのは当然です。

8.しかも、「CICは日本があのように大規模な戦争をおこなうことができたのは、特高制度があったからだとみた」(纐纈)と自慢している思想に、侵略戦争に対する反省もありません。同時に侵略戦争が人権と民主主義を否定してはじめて成り立ったということを浮き彫りにしました。

9.また「世界に冠たる特高警察制度は将来アメリカにとっても参考になる時が来る。そのための資料にしておきたかったのではないか」(纐纈)というように、特高の「手口」をアメリカが学ぼうとして纐纈氏に報告書の提出を求めたこと、纐纈氏も、公職追放解除を狙って、その求めに応じていたということに、安倍首相の祖父、戦犯容疑者であった岸信介元首相がアメリカに命乞いした構造が浮き彫りになりました。その構造が、今回の「特定」「秘密」「保護」法にも見られるのです。

 

それでは、以下の資料をご覧ください。

森村誠一・下里正樹・宮原一雄『日本の暗黒 実録特別高等警察3』(新日本出版91年1月刊)

 

第一章 ある特高官僚の証言

ある特高官僚の証言

 五色大会について、纐纈元特高課長は一九五五年『文芸春秋』八月臨時増刊号の手記「赤色戦線大検挙」のなかでつぎのように書いている。

 「五色温泉の創立総会を確認して以来半歳余の努力が続けられたが、党の最高幹部の所在はどうしてもつかめない。捜査陣の首脳部の間には漸く焦燥の色が濃くなってきた」

 纐纈は本棚から手記掲載の雑誌を取り出し、その行に、赤鉛筆で線を引きながら語る。

 「いや、最高幹部がみな地下に潜り、ようとしてゆくえが知れず、手がかりもない。手づまり状態の時に、『無産者新聞』に徳田球一が昭和三年二月の総選挙に福岡三区から立候補するとの記事を見た。党の最高幹部たちの所在を把握する手がかりができた、『しめた』と思ったよ。

注:纐纈特高課長が見たのは「無産者新聞」の一九二八(昭和三)年一月十五日付一面下段に掲載された「各労農政党の立候補地、立候補者一覧」見出しの記事と、二月一日付「並いる判検事を震え上らす剽悍(すばやく荒々しいこと)無比の徳田君」の記事。労農党から立候補した徳田は当初福岡三区からと発表されたが、四区に変更となる。

ぼくはさっそく福岡県警察部に電報を打ち、選挙期間中の徳田球一の尾行を依頼した。そのころ、二七年テーゼが出て、選挙中の二月一日付で『赤旗せっき』創刊号が出た。日本共産党の公然化だ。特高にたいする不敵な挑戦状ですな。警視庁特高課、司法省刑事局、内務省警保局で大問題になった。それだけでなく、『天皇と結びついた資本家地主の政府を倒せ』『帝国主義戦争反対』などの日本共産党名の入ったステッカーが電柱に貼られるようになった。これを指導している党の最高幹部をなんとしても一刻も早く検挙することが至上課題となった。内偵線(スパイ)も動かし、党員名簿の入手を急いだが、実現しない。『無産者新聞』や『赤旗』を赤鉛筆を引き引き丹念に読み、ヒントをえようとしたがダメである。そこで徳田しかいないとしぼり、ねらいをつけた……」

 一九二八(昭和三)年二月、第一回普通選挙がたたかわれるさなかに、日本共産党中央の幹部を、なんとしても捕まえるのだ……。警視庁特高課の第一着手は、徳田球一の検挙であった―と纐纈弥三はいう。徳田が検挙されたのは一九二八年二月二十六日、総選挙を終えての帰路、門司で床屋から出たところを特高に襲われた。纐纈ははいう。

 「特高課内にワーツと歓声が上がったねえ。ところが徳田をきびしくとっちめたが、何も出てこない。コミンテルンの指示で、最高幹部から外されているので、いくら責め立てても、何も知らんという……最高幹部の所在が分からないまま、三・一五の一斉検挙を断行した」「五色大会の事実が明らかになり、党が再建されたと分かった以上、内務省警保局、司法省検事局とも、じっとしているわけにはいかない。『君主制廃止』と天皇陛下の体制に攻撃を加えるのは日本共産党だけだから……取り締まりをきちんとしないと上部からお目玉がくる。さあ!本庁特高課は夜も昼もない。当時ぼくは妻に死なれ独り身だったので、ほとんど泊り込み同然で捜査にあたったものだ……。『天皇陛下に弓引く輩を一人のこらずパクらにゃならん』『国賊退治だ!』と特高課全員にハッパをかけた」

 「当時、警視庁特高課は特高係、労働係、検閲係、内鮮係の四係があり、スタッフは七十~八十人ぐらい居たかな……。私を先頭に労働係の浦川秀吉係長、毛利基警部らと会議を開いては、徹底的に内偵・捜査を重ねた。評議会(日本労働組合評議会)、無産政党のメンバーなどしらみつぶしにあたったが、その結果……党員数は特定できたが、その数はやっと七十人足らず……かんじんな最高幹部の所在が分からない」

 党幹部の所在が不明のまま、当局は見切り発車の大検挙を立案した。纐纈の回想によれば、一九二八(昭和三年三月初め、東京・千代田区丸ノ内の東京ステーションホテルで、内務省警保局、司法省検事局、警視庁特高課の三者協議がもたれた。出席者は山岡萬之助内務省警保局長、友部泉蔵保安課長、松阪廣政東京地裁検事局次席検事、平田勲思想主任弥三郎特高課長、浦川秀吉労働係長らであった。

「この時の三者協議で…全国いっせい検挙でいこうということとなった。その日三月一五日をXデーとした。特高課は検事局と緊密な連絡をとり、絶対に、事前に情報が漏れることのないようにしようとー確認した」「なにしろ、対象一二年の、第一次共産党検挙事件のおり…捜査情報が事前に新聞記者に漏れ、手痛い失敗をなめたことがある…。特高、検察は『同じ轍を踏むな』が合言葉になった。検察・特高一体となった思想事犯の取り締まりは初めての体験なので、警視庁のわれられは猛烈を仕事をした」(略) 

第二  内偵線上のアリア

 「日本共産党とたたかうには、表の闘いだけでは絶対に勝利できない。裏のたたかいが必要だ。裏の闘争……それは高度の頭脳戦ですよ」

 綱傾弥三の証言である。頭脳戦とはなにか。纐纈のいうところを聞こう。

 「(一九二八年)当時は……大学出の、頭のいい党員が多かった。これを切り崩し、転向させるためには捜査当局が、かれら以上に党内事情に通じ、かれらの動静をてのひらの上に置くことが求められた」

 わずかな党員しか知らないはずの事実を、捜査当局がすでにキャッチしている…その驚きとショックを与えて、党員を動揺させ、供述させ、敗北感を抱かせ、転向させる。特高警察のもちいた手法である。そのためには、「内偵線」(スパイ)をたえず増やし、切れ目なく、太くしておくことを心がけなくてはならない。「内偵線」を特高官僚は単に「線」ともいう。五色大会(第三回党大会)の事実を探求したのも、「線」からの電話通報を受付たからである。

纐纈弥三はいう。―

 「スパイを使うというと、世間では不道徳のように受け取る向きがあるが、われわれ特高側にしてみると常識の部類だ。何も驚くことではない」「スパイを使うことは治安対策の大きな柱だよ。明治維新以後、治安当局はスパイ政策について研究を重ねてきている。各種の極秘文書として、今も治安当局に残っている。警視庁特高課もこうした政策を引き継いできたんだ」「共産党は、外から見ているだけでは分からない。とくに非公然の時代にはなおさらだな。スパイがいてはじめて共産党の姿、現状が効果的に、正確に分かる。正確な情報を入手してこそ、対策も平確になる。だからこそスパイが必要なのだ」「スパイの養成なくして共産党対策はない…これは昔も今もかわらないねえ。五色温泉での第三回再建党大会も、三・一五事件も、いずれも各方面に放っておいたスパイからの情報がモノをいった……第一報はスパイから入手する。それにもとづいて内偵、捜査をやり、思想犯を捕らえる。検挙したあとは、徹底的取り調べでドロをはかせるのさ

 スパイの具体名を尋ねても、纐纈弥三は言葉をにごし、実名は一人も挙げない。

 纐纈はいう。-

 [天皇制国家を守るうえで治安維持に果たした三・一五と四・一六の二大事件の一斉検挙の教訓は、後世、また党が大きくなり、国家体制をゆるがすようになれば、再び生かされよう。国政選挙や地方選挙で日本共産党の議席が伸びない時はいいのだがねえ

 「一斉検挙の教訓」とは、ふだんからスパイを要所に配置し、いざという場合にそなえ、弾圧の準備おこたりないことをいう。纐纈ら特高官僚は三・一五弾圧をやって、日本共産党との「たたかいは終わった!」と思った。ところが、また党が伸びて、二度目の四・一六大検挙をやっ。た。これもまた、「たたかいは終わった!」と胸を張った。二度ともつかの間の勝利にすぎなかったが、かれらはあたかも天下を取ったかのごとく、美酒をくみかわし勝利のアリア(絶唱)に酔いしれた。だが、その“勝利”も纐纈がいうようにスパイ頼みの内偵線上に成り立ったアリアであった。暴行と脅迫と甘言と金品で、スパイに堕落させられた人々の苦悩。自堕落。ふてぶてしい開き直り。―その上に特高は。勝利”のアリアを歌ったのである。党組織を破壊するうえで、スパイは不可欠の存在―と級願はいう。

 「スパイを作るためには、党員、主義者個人の持つ弱点を、徹底的に研究する。そしてねらいをつけた者にじわじわと接近する。とくに、本人の弱点が、党の機関に知られておらず、知られると、こっぴどく処分を受けるような弱点にかぎる」「しかも、党幹部になれそうな党員で、将来を嘱望されている者が一番いい。中央委員クラスのスパイを持たないと、質の高い情報が得られないからだ」「スパイをつくること自体……特一に同警察官にとって必死の仕事だ。そう簡単には党員をスパイに仕立て上げることはできない。湯水のごとく機密費を使っても、おいそれとできるわけではない。スパイ工作に失敗すれば、党内の警戒心が高まり、内偵線がこわれる……だからといって、危険があるからスパイ作りをやめるというわけにはいかないからねえ……」

 元特高課長の証言は率直であった。スパイを多用した特高ナンバーワンは、纐纈弥三特高課長の部下だった毛利基である。かれは三・一五弾圧、四・一八弾圧事件を通し、庁内では。“スパイ使いの名手”“特高の神様”の異名で呼称されていた。網傾はいう。

 「毛利君の異例の出世は、かれが三・一五事件以前から優秀なスパイをつくり、育成し、温存するのがうまかったということにつきる……。優秀なスパイとは何か。質の高い情報、すなわち、党の最高幹部の認識、判断、方針を状況に応じて的確につかめればいいわけだ。毛利君は幹部スパイを育成し、いい情報をつかんできたので、いい仕事ができた………」「スパイはそれぞれの警部についていたが、警部同士がどんなスパイを持っていたのか知らない。お互いにそれを知らないようにしていた。本庁の特高課長時代、ぼくは部下がどんなスパイを持っているか、特別に聞いたことがない。それは個々の警部の個人的な関係である。ただスパイを使う経費として機密費から支出するので、その際管理上、機密費を渡す相手先として、スパイ名は分かる。日記帳を見ればもっと正確な話ができる。なにしろ一日もかかさずつけていたからねえ

 纐纈元特高課長自身のスパイづくりはどうだったのか。著者はたずねた。

 「ぼくは二人の幹部スパイを持っていた。よ。それも前にいったように、党機関が知らない、知ると大問題になるような本人の弱点を、部下からの情報でつかんで、本人に接近して、スパイにした」「その男の名前も、ぼくの日記帳にかいてある。ぼくはそのスパイにいろいろと面倒を見てやった。その時は課長の手元にある機密費を使った」「機密費はぼくが兵庫県警察部外事課長のとき(一九二六年)ぼくの分だけで月五百円あった。警視庁特高課長になってからは、それよりはるかに多くなった。特高課長の月給は当時百数十円だが、機密費のほうがず-っと魅力だった

 特高がスパイ仕立てにねらう党員の弱点とは、自分だけは長期投獄を逃れたいと思う者。党内の人事評価への強い不満、批判を根強く持つ者。土地、家庭、借財などの金銭上の悩みが切迫していて、すぐにもまとまった金を必要としている者。酒と女と金にだらしのない者。家庭内の不和、家族崩壊。妻のよろこぶ旅行、ちょっとしたプレゼント、おしゃれなどの要求を満たしてやりたいが「金がない」と悩んでいる者など。しかもそれがなるべく「党機関に知られていない弱点」-纐纈弥三はこの条件にかなった者にスパイ工作をおこなうというのである。

 日本の秘密警察が蓄積した「内偵線」養成のノウハウは、戦後に日本を占領した米軍の注目するところとなった。日本を占領統治するために、サンフランシスコ条約反対、民族独立を主張する日本共産党を押さえ込まなければならなかったからである。ここに纐纈弥三・元警視庁特高課長が戦後CIC(米陸軍情報部)の依頼を受け、戦前の特高警察のスパイ政策について書いた報告書の下書き原稿がある。網傾は特高生活が長かったため、一九四五年から五一年まで公職追放を受けた。この追放を一日も早く逃れるため、米軍に忠誠を誓って書いたのが、CICへの提出報告書である。

 纐纈は「CICは日本があのように大規模な戦争をおこなうことができたのは、特高制度があったからだとみた。世界に冠たる特高警察制度は将来アメリカにとっても参考になる時が来る。そのための資料にしておきたかったのではないか」と注釈をつける。(引用ここまで

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