13日と16日の赤旗日刊紙に、あの著名はドナルド・キーンさんが掲載されました。内容的にも薀蓄のあるものでした。そこで、共産党・赤旗を検索してみました。案の定、この記事は掲載されていませんでした。理由を考えてみました。
一つは、こうした記事を掲載しても意味のないことと考えている。でもそんなことはないとは思いますが、軽視しているのではないかと思ってしまいます。何故か、この手の記事は掲載されていないからです。
二つは、検索してみれば判りますが、赤旗の記事に関するHPは充実していません。ジャンルごとに、アクセスできないようになっています。このHPをみていると、一体何を報せたいのか、よく判らないことがあります。
三つは、いわゆる商業紙のようなHPの画面・紙面をつくる技術を持っていないかもしれません。愛国者の邪論も、そうですが、ネット社会の進歩度についていくのは至難の業だからです。しかし、日本共産党は、科学的社会主義を理論的支柱とする革命政党です。時代の最先端を走らなければ、国民の気分・要求を捉えることは難しいでしょう。
四つは、本題とは違っていますが、赤旗拡大に日夜奮闘されている共産党にしては、どうでしょうか。それは、この著名なドナルド・キーンさんに、赤旗に登場していただきながら、それをネットで紹介しないのは、赤旗拡大の宣伝効果について、あまり考えていないのではないか、と、そのノーテーンキぶりに唖然としてしまいます。全く理解できません。何を考えているんでしょうか。
と、思ったら、そうでもなさそうです。しかし、どうでしょうか?以下お読みください。
田村一志「ネットの可能性と政治革新―初のネット選挙で見えてきたもの」(『前衛』2013年11月号)を観ると、一定の取り組みが報告されていました。選挙総括的な報告文書ですから仕方ありませんが、「SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)」の活用の経験と教訓が中心でした。しかし、この党宣伝局次長さんの文書を読めば読むほど、このネットの活用が、赤旗拡大以上の威力を発揮した選挙であったことが浮き彫りになるのです。これは皮肉なものです。詳しい事は、論文というか、報告をお読みください。
しかし、皮肉ではあっても、この経験をどのように発展させるか、そのことでこそ、共産党の発信力・共産党のメディア力が試されるのです。この新たな側面・芽に対して、共産党がどのような努力を傾注していくか、ここがポイントだと思います。すなわち赤旗拡大一辺倒からの革命的脱却論を強調しておきたいと思います。
そこで、以下の部分を掲載しておきます。
[ネトウヨを組織し、味方につけてあおる自民党]
このネトウヨを、みずからの勢力伸長に利用しているのが自民党であり、安倍首相です。○九年、総選挙で敗北した自民党は、新たにネット対策として、自民党ネットサポーターズクラブ(J-NSC)をたちあげます。ここには、先ほど紹介したようなネトウヨたちがぞくぞくと集まり、現在一万二〇〇〇人が加入しているといわれています。『安倍政権のネット戦略』(創出版新書)で、ネットジヤーナリストの中川淳一郎氏は、排外主義をあおる書きこみをくりかえすネトウヨやJ-NSCメンバーにたいして、首相はそれをいさめるどころか、逆にあおり、けしかけるかのような態度をとっていることを指摘しています。(引用ここまで)
自民党の経験を披露したこの指摘に学ぶとすれば、共産党の理念と政策をどのような方法で国民の中に浸透させていくか、示唆に富む自民党の経験です。自民党のメディア戦略から何を学ぶか、これは共産党が政権を奪還する上でも、政権を支えていく上でも、学びすぎることはないでしょう。
そういう視点で、以下の文書には興味を持ちました。それは、愛国者の邪論の文書もキャッチしていたであろうという推測とその意味です。そういう意味では、共産党を叱咤激励していくことは緩めるべきことではなく、大いに発信していくべきものだと、確信するものです。それもこれも民主主義のためのです。
…実は、共産党としても、業者に依頼して、ネット上でネガティブ・ワードが党の知らないところで大規模に流れることがないように監視していたのですが、ほとんど報告があがってこない。業者がサボっていたのではないんです。現実に、悪質な中傷などがないから報告することがほとんどないということでした。(引用ここまで)
いよいよ本題に入ります。ドナルド・キーンさんの発言を取り上げたブログを調べてみました。「ドナルド・キーンと赤旗」で検索してみました。約1,100件あるようですが、以下のものを掲載しておきます。党宣伝局が、こうした実態をどのように把握し、世論形成を質量ともに拡大していくか、研究すべきところでしょう。また赤旗のHPについても、掲載記事の検討が求められていることでしょう。ネットをとおして、ネットを活用している国民に何を発信していくか、その検討です。
「古井戸や 蛙飛び込む 水の音」 です。
ドナルド·キーンさん、赤旗で語る - 山上俊夫·日本と世界あちこち
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ドナルド·キ―ンさん「赤旗」で語る。「大切にしたい財産9条」「原発再稼働 ...
愛国者の邪論が思うには、日本文化の奥深いところに、時代を切り開く、新しい芽がどのように培われてきたか、その文化は、どのような経済構造・「下部構造」のなかで、さらに政治形態の下で形成されてきたか、そのことに目を向けていく必要があるように思います。「上部構造」の研究です。ということは、現代社会にも当てはまることです。マスメディアを通してどのような「文化」が形成されているか、それがどのように経済構造・「下部構造」に、どのような影響を与えていくか、いるか、の研究です。
赤旗の果たす役割を考えれば、その発信力の革命的改革・変革は、一刻を争って行なわれなければならない課題でしょう。その点、ドナルド・キーンさんの研究と語りは示唆に富んでいるように思います。しかも、「鬼怒鳴門(キーン・ドナルド」という日本名も、なかなか洒落ています。これも日本の伝統文化を理解しているからこそ、でしょう。
例えば、靖国神社や伊勢神宮に参拝する庶民のこころの奥底に何があるか、日本の伝統文化の何が流れているか、その庶民のこころをどのようにスリカエて、トリックを使って、政権を維持しているか、ドナルド・キーンさんが、日本兵の手紙を読んで学んだように、今、共産党の理念と政策と運動にとって必要な視点が、このキーンさんの思想にあるように思いました。このことについては、青木美智男『小林一茶 時代を詠んだ俳諧師』(岩波新書9月刊)にも如実に書かれていることでした。これについては、後日記事にしたいと思います。
それでは、掲載された記事をご覧ください。
赤旗10月13日付1面と14面 日本文学・文化研究者 ドナルド・キーンさん語る
大切にしたい財産 9条
長年、日本の文学と文化を研究してきたドナルドーキーンさん。「愛する日本」への思いを込めて、日本文化とのかかわりや憲法、原発について語りました。
ドナルド・キーン 1922年、ニューヨーク生まれ。コロンビア大学名誉教授。 2008年文化勲章受章。著書に『日本との出会い』『百代の過客』『日本文学史』など。
私は70年近く日本文学研究を続けてきました。40年前から東京に家を持ち、2011年まで米コロンビア大学で日本文学を教え、日本とアメリカを行ったり来たりしてきました。昨年3月、日本国籍を取得して、日本人になりました。
日本にとって“お客さん”ではなくなり、これまで遠慮して言わなかったことも、愛する日本のため言うことにしました。
私が日本の文学を知ったのは、1940年、コロンビア大学2年生、18歳の時です。偶然、『源氏物語』の英訳本と出合ったことからです。
日本兵の手紙
その年は、ナチス・ドイツ軍がノルウェー、オランンダ、フランスなどヨーロッパの国々を占領し、ロンドンの空襲が始まっていました。反戦主義者で、戦争は人間のあらゆる行為のなかで一番醜いものだと信じていましたから、悩んで、戦争から逃避するかのように、「源氏物語の世界」に入り込みました。日米が開戦し、軍人になりたくなかったので、海軍の日本語学校に入り翻訳・通訳の勉強をし、ハワイに派遣されました。
日本軍隊が消滅したあとでしたが、押収した日本兵の日記や手紙を見つけました。それまで日本人を狂信的な国民だと思っていましたが、彼らの文章を読んで、家族を思い、祖国を懐かしむ、その気持ちは自分と同じだと思いました。
特攻機「神風」のパイロットらはどんな本を読んで米艦に突撃したのか。日露戦争では多くの日本兵が捕虜になったのにそれを偽り、太平洋戦争では捕虜になることを恥と考えて命を落としていった。どのように洗脳されたのか、の疑問を持っていました。
それを解いてくれたのは、小田実さんが1998年に出版した『玉砕』で、あの複雑怪奇なカラクリと兵士の死が理解できました。そこで、夢中で翻訳し、2003年、英語版をアメリカで出しました。
戦争は愚かだ
アメリカは戦後、ベトナム、アフガニスタン、イラクに兵隊を派遣し、多くの戦死者を出しています。戦後、日本では、戦死した兵隊は1人もいません。それは、多くの犠牲の上にできた「日本国憲法」に、軍隊を持たず、外国との交戦権を認めない、平和主義をうたう「第9条」があったからです。大切にしたい財産です。私は91歳になり、戦争を知る友人もだんだん少なくなりました。戦争がいかに恐ろしいものか、愚かな行為かを語らなければいけないと考えています。
聞き手・潭田勝雄 写真・山形将史(14面につづく)
赤旗10月13日 14面
愛する日本のため発言
1953年に日本文学を研究するために日本に来て、京都大学に籍を置きました。日本の生活になじもうと狂言を茂山千之丞(せんのじょう)さんから1年ほど習いました。
日本を離れることになり、56年に京都と東京で送別記念の狂言会がおこなわれ、私は太郎冠者などの役で舞台に立って感動しました。それを「碧(あお)い眼の太郎冠者(かじゃ)」といってくれました。実際は「青い目」ではないのですが。(笑い)
文楽を守って
京都での留学が終わったあとも、56年から毎年夏、日本に来ていました。その間、金春流(こんぱるりゅう)能の謡と舞いを習いました。
そんな意味で、私は「大果報の者」といえます。コロンビア大学の博士論文は、近松門左衛門の「国性爺合戦(こくせんやかっせん」」でしたから、歌舞伎、文楽も研究し、大好きになりました。
昨年、橋下徹大阪市長が文楽を「退屈だ」と批判し、文楽協会への補助金見直し発言をしたことを知ってビックリしました。政治家が文楽をどう見たかは自由ですが、売れるかどうかで芸術をはかってはいけません。まして、大阪で生まれた文楽を、大阪の人が否定するのはいかがなものか。季刊『上方芸能』(2012年6月)の「文楽守れ」特集に、抗議するメッセージを書きました。“遠慮しないで言う”第1弾です。
今年、文楽の技芸員でつくるNPO法人「人形浄瑠璃文楽座」の名誉顧回になり、「応援団長」を引き受けたのも、日本文化を愛するゆえです。
再稼働に反対
安倍晋三首相は、オリンピックの東京招致のためのプレゼンテーションで、大事故を起こして、なんら解決していない福島原発につて、「汚染水の影響は、港湾内で完全にブロックされている」と説明しました。その後も福島第1原発のタンクから汚染水が漏れ海に流れていると報道されています。世界中から、安倍さんは信用できるのか、と疑問が出されています。復興を願う東北の被災地の人々にどう説明するのでしょうか。
この9月21日、「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開設され、オープニングに出席しました。ニューヨークにあった書斎を復元展示し、書籍・レコード・映像資料などを収蔵していただきました。日本文学・文化を見つめ直す場にと願っています。
この新潟県柏崎市は、角書(つのが)きに「越後国柏崎」の文言をもつ古浄瑠璃『弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)』のゆかりの地で、昔から豊かな文化があった所です。
ところが、いま、柏崎刈羽原発を再稼働するかどうかで揺れています。私は、福島原発の悲劇から学んで、原発再稼働は絶対やるべきではないと主張したい。(引用ここまで)
赤旗10月16日付 9面 文化 学問 欄 日本文学・文化研究者 ドナルド・キーンさん語る
日本文化の源流
そして啄木のこと
日本の文学と文化を研究してきたドナルド・キーンさんは自身と日本文化のかかわりや憲法への思い(13日付既報)に続いて、日本文化の源流や石川啄木のことを語ります。
私か気に入っている「日本人の心」とは、約十年にわたる戦乱「応仁の乱」で都が焼かれた後、将軍足利義政のもとで新しく花開いた中世・東山文化です。
義政が建て住んだ山荘が、死後、銀閣寺として現在も親しまれています。東山文化は、今日に続く日本の伝統芸術の源流だと思います。絵師の雪舟、狩野政信らが活躍します。
「型の文化」といわれ、家元制度として継承されてきた能・狂言、茶道、華道の誕生もこの時代です。和室には、畳があって、床の間があり、いけばなや陶器が飾られ、そこから庭がみえる風景が好きです。日本の伝統芸能のなかでも最も日本的なものが茶の湯です。後に千利休の「佗び茶」として大成しました。ほとんど飾り気のない地味な小部屋で、主人と数名の友人が静かに語らうという「茶室」の型ができていきました。
明治の文学で
一番の感動
『日本人の西洋発見』(芳賀徹訳)を書いて、江戸中期からの日本人の西洋に対する知的好奇心の軌跡をたどり、オランダ人や蘭学にどう向き合ったかなどを調べました。さらに、渡辺崋山、明治天皇を調べ書き、その次が啄木でした。明治時代の文学作品のなかで、私か読んだ限りですが、一番感動させられたのは、石川啄木(1886~1912)の日記でした。
京都に留学して、松尾芭蕉の研究をし、日本文学選集(2巻)を作りました。上巻(日本の古典)には万葉集、源氏物語などを選びましたが、下巻の近代・現代に石川啄木を入れました。明治文学のうちでは、森鴎外、夏目漱石の作品に比べ、啄木の日記は抜群の人気がありますが、短歌ほどは読まれていません。
時代を超えて
個性がある
文学的にすぐれた近代の日記にそなわる本質的な特徴は、作者が描く自画像に信用がおけることであり、それが興味深いところです。その点で、国木田独歩、正岡子規の日記には、一種の「空白」が生まれ、 ときに「本当のところはどうなの」と問いかけたくなる衝動にかられました。啄木の文章は、私の心を打って、「これこそ近代人だ」と感じた最初の日本の作家でした。
啄木が日記を書き始めたのは、1902(明治35)年の『秋韷笛語(しゅらくてきご)』からで
す。17歳の少年の文章としては、衒学(げんがく)趣味で鼻持ちならない。やり姶めたたいて
いの仕事を最後までやり通せない、作品に目立ってむらがある、だらしない金銭感覚など天才特有の欠点を持っています。しかし、この天才主義の資質が肯定的に発揮されたのが、詩作や小説ではなく、日記だったと考えます。
啄木には、自分のすべてを語りたい気持ちがあって、「ローマ字日記」(1909年の20日間)でやったのでしょう。明治末期の人ですが、時代に拘束されず時代を超えて、個性がある。現代の若者に同時代性を感じさせる要因です。
ローマ字日記
なぜつけた
啄木が「ローマ字日記」をなぜつけたのか。日記の冒頭近くに、「予は妻を愛している。愛しているからこそこの日記を読ませたくないのだ。しかしそれはうそだ!」と。啄木は、自分の不貞行為(浅草の女郎屋での買春)を妻に知られたくないから、ローマ字で日記を書くのだというのだが、矛盾をかかえていました。啄木の死後、妻・節子は、「啄木が焼けと申したんですけど、私の愛着が結局そうさせませんでした」(宮崎郁雨(いくう)『啄木日記と私』)と言っています。日記をはじめ作品は残り、現代人に読まれることになりました。
いったい何を啄木は恐れたのか。「大逆事件」に関心を持ち、「時代閉塞の時代」の文章を書かせたような、晩年に傾斜した社会主義思想が官憲に知られては困るからというのか。病床の人間ですから、そうでもなかったでしょう。私は、啄木が自分の真っ裸の姿を他人に見られるのは恥ずかしいという感覚だったのではないかと思います。でも、その真っ裸に表現しているところが、私たちに感動をあたえているのです。私は今、啄木を再評価する研究を進めています。
聞き手・深田勝雄(引用ここまで)(啄木の文字は愛国者の邪論の責任で略字で表記しました)