都知事選の重要な政策であった「脱原発」は、今後も大きな課題となることが、宇都宮・細川票から浮き彫りになりました。舛添票の中にも原発再稼動を容認する票が全くなかったとは言えないことが、舛添氏の語ったことからも明らかでした。
しかし、安部首相は、選挙後再稼動に意欲を示しました。この御仁は、沖縄でも、フクシマの事故でも、そうだったように、自分の都合の良いように勝手に解釈するのが得意ですから、またイエローカードのようなものを突きつけても平気でルール違反することは明らかですから、レッドカードを突きつける必要があると思います。
そこで確認しておきます。安倍氏は、2012年の時の選挙・政権公約では「全てのエネルギーの可能性を徹底的に掘り起こし、社会・経済活動を維持するための電力を確実に確保するとともに、原子力に依存しなくても良い経済・社会構造の確立を目指します」と言っていました。ところが、現在では、原発を「基盤となる重要なベース電源」(エネルギー基本計画案)と位置づけているのです。今や原発メーカーの「セールスマン」「大番頭」ぶりは、「公約違反」であることは明らかです。
ところが、このような安倍自公政権の「公約違反」とフクシマの現実から乖離した事態が、国民意識のなかでも進行しているのです。朝日が行った都知事選挙の出口調査の結果が、それです。原発を
「今すぐゼロにする」21%、「徐々にゼロにする」63%、
「ゼロにはしない」15%
だったそうです。一応ゲンパツを「ゼロ」にするは、84%なのです。有効回答7466人ですから、圧倒的です。しかし、そのなかでも、この圧倒的多数であった「徐々に」が、なかなか曲者なのです。「ゼロ」か、否か!と言えば、確信のない、よくわからない、態度曖昧な人は、だいたい「中間」「徐々」が多くなるのは当然です。「ゼロ」の場合は、その道筋が追求されます。しかし曖昧な「除々」は、あまり追求・追及されません。この両者の枠内での議論が、もっとなされたら、結構面白い結果が出たように思います。
そういう意味で、曖昧な舛添氏の真価が問われるのは、これからでしょう。
同時に、「今すぐゼロ」派について、ですが、どのようにすれば多数派にすることができるか。これは、共産党など、すでに公表されている「即時ゼロ」論について、国民的議論に付していくことが、マスコミを含めて提唱者、特に共産党に求められていると思います。この提唱が、覆い隠されている、国民のところまで届いていないのは何故か、解明し、手を打っていく必要があると思います。このことは著名人が、細川氏を応援したことに、ある意味反映しています。切迫性と実現性を天秤にかけた時、細川氏に賭けた心音の奥深いところに何があるか、「即時ゼロ」論は検証すべきでしょう。これは政権論とも連動する課題です。
更に言えば、この「今すぐゼロ」論と、「徐々にゼロ」の違いです。これは、フクシマの認識の違いからきているのではないでしょうか。これだけ、巨大地震が迫っているにもかからわず、またフクシマの危険性が、コントロールされていないにもかかわらず、被災者が地元に帰れないにもかかわらず、「経済の停滞」論、「高価な化石燃料購入」論、「再生可能エネルギー不信」論にスリカエられているのです。
選挙直前に公表されたフクシマの子らの甲状腺がんに侵された実態は、ほとんど黙殺されました。この構造は、沖縄の基地の弊害について、他人事であることと連動しています。或いは津波の脅威を他人事としていた被災地の被災者とも、連動していると思います。また、これは大東亜戦争の加害者でありながら、被害者に対する想像力の欠如とも連動していると思います。
こうした意識・感情・認識はどこから来るか?「事実の風化」に最大の要因があるように思います。系統的に事実を捉えなおしていくという営みの欠如です。誰が「風化」させているか、明らかです。
この間、記事の中で書いてきましたが、首都東京の電力エネルギーの量が、全国民の一割の都民の生活を支えているのです。首都東京は、日本経済の何パーセントを支えていることでしょうか?もし、東京に電力が供給されなくなったのなら、日本経済にどのような影響をあたえることでしょうか?そうした視点で考えるならば、東京の「ゲンパツ」問題、「エネルギー」問題は、国政上の問題でもあったわけです。しかし、「イシュー」論を対置することで、再稼動派はスリカエたのです。舛添氏は、「徐々に」論でスリカエました。舛添氏の福祉充実論にしても、世界一の東京論にしても、猪瀬氏の取り組もうとした「不夜城」輪にしても、電力エネルギーをどうするか、鋭く問われていたはずですが、マスコミは不問でした。
そういう意味で、舛添都知事の政策は、この電力エネルギー論と矛盾することは明らかです。公約違反が問われてくることでしょう。
もうひとつあります。それは「脱原発」を追求すればするほど、原発利益共同体との矛盾にぶつかるということです。福祉にしても、雇用にしても、防災都市づくりのためのインフラ整備にしても、この原発利益共同体の利益と都民の生活は真っ向から対立することは明らかです。「中間」は可能でしょうか。今回のスリカエは、その奥深いところに、この原発利益共同体が蠢いたことは、東京の連合が、舛添氏を支持したことに象徴的です。この連合の動きを暴いていけば、対立の構造が見えてきます。しかし、このことは選挙期間中争点にもなりませんでした。スリカエたからです。
この視点は、前衛の三月号に掲載された小松公生「3.11後の「原発利益共同体」の現状と実態(上)」に詳しく書かれています。この論文が12月号か、1月号か、2月号に書かれていたら、思うと、大変残念です。また渡辺博之「絶望から希望へー原発労働者の改善のたたかい」は、今なお、命を懸けて原発危機の収束、廃炉に向けて、原発労働者が、東電のかん口令に屈せず、放射線の拡散を防止するために日夜奮闘している実態が暴かれています。
こうした原発利益共同体の野望と原発労働者の実態に、安倍首相の言葉を使えば、「思いを致す」ことが、日常的に展開されていれば、原発の上を飛ぶ鳥は死んでいない、フクシマ原発事故で死者はいないなどと、公然と大嘘をつく候補者に支持が集まるなどということはなかったか、もっと少数だったと確信するものです。この田母神氏への支持については、別項で記事にしますが、いずれにしても、原発が、直接自分のところには、その被害は及んで来ないだろうという楽観論が、蔓延まではいかないにしても、結構な数字だったのではないでしょうか?このような世論に対して、何を、どのようにアピールしていくか、それは脱原発統一戦線をつくる上でも、脱原発政権を樹立するうえでも、検討しなければならないことではないでしょうか?
そういう意味で、「東京湾に原発を誘致する都知事」候補が出てきたら、どうしますか?などという世論調査をしてみれば、と思います。負担を分かち合うという論理です。普天間の負担を分かち合うという論理と同じです。特に原発利益共同体に関係する会社などに答えていただくという設定で、どうでしょうか?彼らはどうするでしょうか?
しかし、この設定は、すでに横須賀基地にあるのです。原子力空母ジョージワシントンです。この空母の危険性については、原発以上に安全神話に浸りきっているのが、日本国なのです。日米軍事同盟安全神話・保障論があるからです。