福島地裁判決で問われたのは、震災後の心のケアだけか!それは当然大事だ!だが…
前号では各紙の社説を一覧しておきました。今回は各紙のコラムを検証してみました。以下のコラムに、信濃毎日以外には、ハッキリと「再稼働」の文字がありました。これが本来の在り方ではないでしょうか?このコラム子に大アッパレを贈りたいと思います!
東奥日報 天地人 2014年8月28日(木)
http://www.toonippo.co.jp/tenchijin/ten2014/ten20140828.html
原子力事故の悲惨さをあらためて思い起こした人が多いのではないだろうか。東京電力の福島原発事故で避難中の3年前、福島県川俣町の渡辺はま子さん=当時(58)=が自殺した。その損害賠償訴訟で福島地裁は事故との因果関係を認め、東電に4900万円の支払いを命じた。
渡辺さんは生まれた時から住み慣れた地を離れなければならなかった。知人と別れ、仕事も失う。喪失感が大きかったに違いない。「避難生活で精神的に追い詰められ、うつ状態になった」(地裁)のも無理はない。
事故前から不眠症状があり、ストレスに耐える力が弱い状態だったらしい。一時帰宅した際、庭で焼身自殺した。展望の見えない避難生活に戻らなければならない。そんな現実に絶望したのだろう。
放射能による死者はいなくても、多くの人が避難生活を余儀なくされ、渡辺さんのような犠牲者もいる。原発事故の罪は計り知れない。「防ぐべき事故を防げなかった」と、東電は昨年、事故を反省し、安全意識の改革を宣言した。が、国民にその真剣度を信じてもらうのは容易でなかろう。
本県にも稼働・再稼働を目指す複数の原子力施設があるから心配する県民も多かろう。頼りは国の原子力規制委員会の厳しい安全審査だ。渡辺さんのような悲しい死が二度とあってならない。
信濃毎日 斜面 08月28日(木)http://www.shinmai.co.jp/news/20140828/KT140827ETI090002000.php
「戻りてえ」―。渡辺はま子さんは福島市の避難先で夫の幹夫さんに泣いて訴えた。夫婦は数日後、計画的避難区域の川俣町山木屋の自宅に一時帰宅。その晩、はま子さんは「残る」と言って泣きじゃくった
花や野菜作りを愛した58年の人生を自ら絶ったのは翌朝のこと。幹夫さんは原発事故の避難生活でうつ状態になったため―と東京電力に損害賠償を求めた。法廷で東電側が反論した理由の一つが「個体の脆弱(ぜいじゃく)性」だ。はま子さんの内面の弱さを指摘した
原発事故が大きな原因と判断した福島地裁判決は、古里の価値や意義を重く見た。山木屋や自宅は、家族の共同体をつくり上げ密接な地域社会とのつながりを形づくる場だった―と。ごく当たり前だが掛け替えのない暮らしや人間関係。それを喪失した絶望に、裁判官は寄り添った
チェルノブイリ原発事故の立ち入り制限の村に、強制退去先から戻って暮らす高齢者がいる。サマショール(わがままな人々)と呼ばれる。画家の故貝原浩さんは、悲しい覚悟を決め、つましく温かい生活を送る姿を画文集の「風しもの村から」に描いた
「長い時間をかけて畑を耕し、日々の営みの全てをその土地にゆだねてきた」人々である。古里の日々がいかに大切か、福島も同じだ。国や東電がその思いに寄り添うなら、東電も「個体の脆弱性」などという言葉は二度と持ち出せまい.
徳島新聞 鳴潮 8月28日付 http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=127&agent=11&partner=nifty&name=%C6%C1%C5%E7%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=2&dispconfig=&tblattr=1
きれいな花が呼び覚ますのは、美しい思い出ばかりとは限らない。つらい記憶を宿した一輪もある。「はま子が植えた花が毎年咲くんだ。俺は名前分かんねえ」と、渡辺幹夫さんは言った。妻が命を絶ち3年がたつ
福島県川俣町山木屋地区。一時帰宅した自宅の庭でこの夏も、薄紫やピンクの花が風になびいていた。「原発事故の避難で、まるきり別世界に追いやられ、妻は苦しみながら死んだ。ただの自殺にしたくない」。裁判に訴えたのは、こんな思いからだ
はま子さんは、生まれてから58年、ずっとこの地で暮らし、3人の子どもを育てた。福島第1までは約40キロある。よもや平穏な生活が奪われるとは、意識になかった
福島地裁は、事故と自殺の因果関係を認め、東京電力に約4900万円の賠償を命じた。「展望の見えない避難生活への絶望と、生まれ育った地で自ら死を選んだ精神的苦痛は極めて大きい」と
震災関連の自殺者は福島だけで56人。家に戻れない人は12万人余りに上る。「事故さえなければ」。どれだけの人が歯がみしていることか
時計の針は戻せない。ならばせめて、経験を戒めとしなければ。避難区域に残された花木なら言うだろう。「フクシマを置き去りにして、なぜ原発の再稼働を急ぐのか」。そう、汚染水対策一つ、めどが立っていないではないか。
高知新聞 小社会 2014年08月28日08時03分 http://203.139.202.230/?&nwSrl=325210&nwIW=1&nwVt=knd
「何の落ち度もないのに、亡くなってしまった。いっぺんに全部失ったよ」。一時帰宅した自宅の木の下で、妻はガソリンをかぶり火を付けて倒れていたという。夫の言葉に胸が締め付けられる。
福島第1原発事故で避難を強いられ、自殺した女性の遺族が起こした訴訟で、福島地裁が東京電力に賠償金の支払いを命じた。「避難生活で精神的に追い詰められ、うつ状態になった」。判決は原発事故と自殺の因果関係を明確に認めている。
女性は生まれてから避難するまで約58年間、同じ地区で生活し、夫と3人の子どもを育てた。地区や自宅は、家族としての共同体をつくり上げ、家族の基盤をつくり、女性が最も平穏に生活できる場所。密接な地域社会とのつながりを形成する場所だったとも判決はいう。
被害者の視点に立つとともに、判決にはもう一つ特徴がある。「東電は、事故が起きれば住民が避難を余儀なくされ、さまざまなストレスを受けて自死に至る人が出ることも予見できた」。いわゆる予見可能性に踏み込んだ。
思い出すのが関西電力大飯原発3、4号機の再稼働を認めないとした、5月の福井地裁判決。憲法で保障された人格権・生存権を最高の価値と位置付け、原発の経済的価値を退けた。司法の言葉に血が通っていると感じる。
それでも全国の原発で再稼働の動きを強める電力会社と安倍政権。いったいどこの国の話か、と思う。