
ここ最近、人からよく道を訊かれる。
“このへんに、コインパーキングはありますか?”
“このあたりに、年金会館はありませんか?”
“区役所はどこかな?”
“四、五時間くらゐ時間を潰したいんだが、このあたりにパチンコ屋はありませんかね?”
いづれも、東京の地理に明るくない人たちである。
渋谷のスペイン坂で、向かうから自転車で下って来た人に、
“道玄坂って、どこですか?”
と訊かれたときは、内心「へぇ……」と思った。
東京は地方人の寄せ集めの街、とは言ったものである。
道を訊かれるたび、知ってゐる限りは答えるが、ごく当たり前の顔をして異国語でなにか訊ねてくる異人だけは、相手にしない。
初めから日本語を使ふ気のないその態度が、大嫌ひなのである。
それでも身振り手振りなどを交へて、なんとか意志の疎通を図らうする様が窺へるのであるならば、こちらもとりあへず足を止める気にもなる。
が、さうでない異人の場合は、ナニを話してゐるのか分からないし、向かふもこちらの話すことが分からないのだから、相手になるだけ時間のムダである。
自分はかつて英國と仏國へ行ったとき、ガイドブックの巻末に載ってゐた現地会話の用例集を見ながら、なんとか相手とコミュニケーションをとった経験からはっきり言ふが、その國へ来たら最低限で構はないから、その國の言葉を使ふべきだ。
挨拶だけでも、相手はにこやかになるものだ。
サッカーのニッポン代表が毎度大コケするのは、異国から連れてきた監督が、そもそも日本語を全く喋る気の無いところに、まず原因があると思ふ。
今宵の満月は、見ると幸せになれのるだとか云ふ。

暦の都合でひと月に二度見られる満月のうち、その二度目の満月を“ブルームーン”とか云ふさうで、なんでも横文字にしたがる発想が嫌ひだが、これはべつに月が青く見えるからではなく、一度目の満月と区別するための呼び名なのださうな。
さりながら私は、この満月を見ると幸せになれる、といふより、見られることそのものがすでに幸せなのだ、といふ気がする。
“このへんに、コインパーキングはありますか?”
“このあたりに、年金会館はありませんか?”
“区役所はどこかな?”
“四、五時間くらゐ時間を潰したいんだが、このあたりにパチンコ屋はありませんかね?”
いづれも、東京の地理に明るくない人たちである。
渋谷のスペイン坂で、向かうから自転車で下って来た人に、
“道玄坂って、どこですか?”
と訊かれたときは、内心「へぇ……」と思った。
東京は地方人の寄せ集めの街、とは言ったものである。
道を訊かれるたび、知ってゐる限りは答えるが、ごく当たり前の顔をして異国語でなにか訊ねてくる異人だけは、相手にしない。
初めから日本語を使ふ気のないその態度が、大嫌ひなのである。
それでも身振り手振りなどを交へて、なんとか意志の疎通を図らうする様が窺へるのであるならば、こちらもとりあへず足を止める気にもなる。
が、さうでない異人の場合は、ナニを話してゐるのか分からないし、向かふもこちらの話すことが分からないのだから、相手になるだけ時間のムダである。
自分はかつて英國と仏國へ行ったとき、ガイドブックの巻末に載ってゐた現地会話の用例集を見ながら、なんとか相手とコミュニケーションをとった経験からはっきり言ふが、その國へ来たら最低限で構はないから、その國の言葉を使ふべきだ。
挨拶だけでも、相手はにこやかになるものだ。
サッカーのニッポン代表が毎度大コケするのは、異国から連れてきた監督が、そもそも日本語を全く喋る気の無いところに、まず原因があると思ふ。
今宵の満月は、見ると幸せになれのるだとか云ふ。

暦の都合でひと月に二度見られる満月のうち、その二度目の満月を“ブルームーン”とか云ふさうで、なんでも横文字にしたがる発想が嫌ひだが、これはべつに月が青く見えるからではなく、一度目の満月と区別するための呼び名なのださうな。
さりながら私は、この満月を見ると幸せになれる、といふより、見られることそのものがすでに幸せなのだ、といふ気がする。