工場敷地内の道筋に当たる場所には、八里目の「本宿村一里塚」が保存されているそうですが、関係者以外立入禁止、江戸時代に発刊された「武蔵名所図会」のなかに描かれている当時の姿を見ることで、そこを通ったことにします(上段写真)。
ここで一度旧旧道を離れ、立川段丘を上って美好町を抜けて国立市との境界線から国道20号線の現道に入り、国立市谷保にある「谷保天満宮」に立ち寄ってみることにします。
昌泰4年(901年)に菅原道真が太宰府へ流罪になった際に三男の道武が連座してこの地へ流され、父の死後に尊容を木像に彫って祀ってから約280年後の養和元年(1181年)、子孫の津戸三郎為守が霊夢によってこの地に木像を移し、社を建てて祀ったのが始まりと云う谷保天満宮は、国立市に入って約1㎞の街道沿い左手にあります。
ふつう神社や寺院は、正面が表通り側に面し、所によっては、さらに高台の上にあるものですが、この神社の場合、鳥居をくぐって参道をしばらく行くと高台に沿って石段を降り、その先に正面を南に、ちょうど街道に背を向けた形で、本殿が鎮座しています。
これは甲州道中がかつて、本殿が正面を向いている南方向の先を通っていたからです。
ここでも、古えの道の名残りを発見することが出来ました。
さて、菅原道武が父を模って彫ったと云う件の木像、実はあまり上手い出来栄えではなかったとか。
現在、ダサい人の事などを“野暮ったい”とか“野暮天(これは今は使わないかな…)”と云うのは、実はここから来ているとの説が…。
谷保天満宮を参拝すると、南方向に伸びる畑のなかの道を通って国立第三中学校の脇から国道20号線に出ると、西へ約1㎞直進。
谷保4丁目の「石田大橋北」交差点で、拡幅されてすっかりそれらしくない旧旧道に再会。
ここで一度旧旧道を離れ、立川段丘を上って美好町を抜けて国立市との境界線から国道20号線の現道に入り、国立市谷保にある「谷保天満宮」に立ち寄ってみることにします。
昌泰4年(901年)に菅原道真が太宰府へ流罪になった際に三男の道武が連座してこの地へ流され、父の死後に尊容を木像に彫って祀ってから約280年後の養和元年(1181年)、子孫の津戸三郎為守が霊夢によってこの地に木像を移し、社を建てて祀ったのが始まりと云う谷保天満宮は、国立市に入って約1㎞の街道沿い左手にあります。
ふつう神社や寺院は、正面が表通り側に面し、所によっては、さらに高台の上にあるものですが、この神社の場合、鳥居をくぐって参道をしばらく行くと高台に沿って石段を降り、その先に正面を南に、ちょうど街道に背を向けた形で、本殿が鎮座しています。
これは甲州道中がかつて、本殿が正面を向いている南方向の先を通っていたからです。
ここでも、古えの道の名残りを発見することが出来ました。
さて、菅原道武が父を模って彫ったと云う件の木像、実はあまり上手い出来栄えではなかったとか。
現在、ダサい人の事などを“野暮ったい”とか“野暮天(これは今は使わないかな…)”と云うのは、実はここから来ているとの説が…。
谷保天満宮を参拝すると、南方向に伸びる畑のなかの道を通って国立第三中学校の脇から国道20号線に出ると、西へ約1㎞直進。
谷保4丁目の「石田大橋北」交差点で、拡幅されてすっかりそれらしくない旧旧道に再会。