
「石田大橋北」交差点を右折して旧旧甲州道中に戻ると、傍を流れる多摩川に沿って上流に位置する現在の国立市青柳まで進み、ここから「万願寺の渡し」を経て日野宿へ入るわけですが、現在その地点に橋が無いため、そのまま交差点を直進。
石田大橋を渡って東京都日野市へ入り、上流の渡し場の着点跡へと向かいます。
ちなみに石田大橋が架かっている場所は、万願寺の渡し以前の渡し場だった「石田の渡し」跡の近くにあたるそうですから、期せずして更に古い道筋を辿っていることになります。
「万願寺の渡し」は現在の中央高速道路「多摩川橋付近」にあります(上段写真)。
それまで下流にあった石田の渡しが、たびたび発生した多摩川の氾濫でよく損壊したため、江戸初期の慶安年間(1648年~1651年)に対岸の道を高台の青柳まで伸ばし、同時に渡し場も上流のこの地点に移したのが、「万願寺の渡し」の始まり。
それから約30年後の貞享元年(1684年)に、現在国道20号線となっている現道へとルートが変更になると、渡し場も更に上流の「日野の渡し」に移されました。
しかし万願寺の渡しはその後も江戸時代を通じて作業用渡しとして利用され、上流に日野橋が開通する大正15年(1926年)まで存続していたそうです。
渡し場を後にして中央自動車道のガードを潜り、その南側に沿ってしばらく進んで途中から左へ反れて万願寺1丁目の住宅地を抜けると、都道149号線に行き当たり、ここを右折(↓写真の前方向)。

中央の上部を多摩都市モノレールが走るこの都道が江戸初期までの“旧旧”甲州道中の一部であったことを示すのが、それから数十メートル先の住宅地の間にある、日野市内唯一現存の一里塚、「万願寺一里塚」(江戸から九里目)。

写真はその南塚で、北塚は昭和43年に取り壊されたとのこと。
この一里塚を越えれば日野宿は近いことから、当時はこの地域を「塚越」と云ったとか。
江戸時代の早い時期に街道の本道から外れた後も(1684年まで)、こうして塚が現存しているのは奇跡と言ってよいでしょう。
一里塚を過ぎ、再び中央道のガードを潜ってその北側に出ると、すぐ先の信号を左折。
約1㎞先で国道20号線を横断した先に僅かに残る旧旧道を通り抜けて再び国道と合流する地点が、「新奥多摩街道入口」信号。
ここで東京都立川市柴崎町から立日橋を経てやって来た現道が、右側から合流。
日野宿の入口はすぐ目の前です。
石田大橋を渡って東京都日野市へ入り、上流の渡し場の着点跡へと向かいます。
ちなみに石田大橋が架かっている場所は、万願寺の渡し以前の渡し場だった「石田の渡し」跡の近くにあたるそうですから、期せずして更に古い道筋を辿っていることになります。
「万願寺の渡し」は現在の中央高速道路「多摩川橋付近」にあります(上段写真)。
それまで下流にあった石田の渡しが、たびたび発生した多摩川の氾濫でよく損壊したため、江戸初期の慶安年間(1648年~1651年)に対岸の道を高台の青柳まで伸ばし、同時に渡し場も上流のこの地点に移したのが、「万願寺の渡し」の始まり。
それから約30年後の貞享元年(1684年)に、現在国道20号線となっている現道へとルートが変更になると、渡し場も更に上流の「日野の渡し」に移されました。
しかし万願寺の渡しはその後も江戸時代を通じて作業用渡しとして利用され、上流に日野橋が開通する大正15年(1926年)まで存続していたそうです。
渡し場を後にして中央自動車道のガードを潜り、その南側に沿ってしばらく進んで途中から左へ反れて万願寺1丁目の住宅地を抜けると、都道149号線に行き当たり、ここを右折(↓写真の前方向)。

中央の上部を多摩都市モノレールが走るこの都道が江戸初期までの“旧旧”甲州道中の一部であったことを示すのが、それから数十メートル先の住宅地の間にある、日野市内唯一現存の一里塚、「万願寺一里塚」(江戸から九里目)。

写真はその南塚で、北塚は昭和43年に取り壊されたとのこと。
この一里塚を越えれば日野宿は近いことから、当時はこの地域を「塚越」と云ったとか。
江戸時代の早い時期に街道の本道から外れた後も(1684年まで)、こうして塚が現存しているのは奇跡と言ってよいでしょう。
一里塚を過ぎ、再び中央道のガードを潜ってその北側に出ると、すぐ先の信号を左折。
約1㎞先で国道20号線を横断した先に僅かに残る旧旧道を通り抜けて再び国道と合流する地点が、「新奥多摩街道入口」信号。
ここで東京都立川市柴崎町から立日橋を経てやって来た現道が、右側から合流。
日野宿の入口はすぐ目の前です。