やがて戻ってきた熊橋老人は、僕が描き上げた下絵を見ると、
「ほう、東京のプロの方は、やはり違いますなぁ……」
云々、感極まったような声で、何度も礼を述べた。
「ところで近江さん、お食事はまだでしょう?」
そう訊かれて、僕は初めて、昼食時をとっくに過ぎていることに気が付いた。
僕は作品に集中すると、いつも寝食を忘れる。
僕は熊橋老人の言葉に甘えて、昼のご馳走にあずかることにした。
連れて行かれたのは集会所からすぐの場所にある、軒の低い格子づくりの古びた旅館だった。
おそらく、昔の旅籠から続いているのだろう。
僕は玄関のガラス戸に縦書された金文字を見て、あっ、と思った。
そこには、「下鶴旅館」とあったのだ。
僕は咄嗟に、インターネットに“郷土史家”として記事を載せている、下鶴昌之なる名前を思い出した。
もしかしたら、ここの人なのでは……?
熊橋老人はガラス戸を開けると、「おーい」と勝手知ったるふうに奥へ声をかけながら、土間に立った。
僕もそれにゆっくり続くと、古い家屋独特の濃縮された空気が、鼻をついた。
やがて「はい、はい」と、奥からタオルで手を拭いながら出てきたのは、ふっくらとした丸顔の、いかにも愛想良さげな中年男性だった。
パッと見は若いが、七三に分けた髪の生え際に、白いものが混じっているところに、実年齢が表れていた。
「こちらが、さっき話した東京のプロの画家の、近江さん」
熊橋老人は、玄関で丁寧に正座して迎える中年男性に、やけにプロという点を強調して僕を紹介した。
さきほど集会所でいちど席を外したのは、ここへ来るためだったようだ。
「それはそれは……」
中年男性は、いかにも商売人らしく物腰柔らかに僕を見て、「お話しは先ほど、熊橋さんから伺っております。なんでも、奉納歌舞伎の松羽目を描いていただいたそうで……」
「まあ、下書きだけですが……」
つい頭の後ろに手をやる僕に熊橋老人は、
「こちらはこの旅館の主人で、下鶴さん。今度の奉納歌舞伎では、音頭取(おんどとり)をするんですわ」
と紹介してから、音頭取とは祭礼の実行委員長みたいなもんです、と付け加えた。
「いやぁ、お恥ずかしいかぎりで……」
下鶴氏はそう恐縮してみせると、上着の内ポケットより一枚の名刺を差し出して、
「朝妻歌舞伎実行委員長の、下鶴です」
と挨拶をした。
名刺は今度の祭礼のために作ったらしく、口上の肩書が刷られた真ん中にはやはり、下鶴昌之とあった。
この人が、インターネットの記事の、“郷土史家”か―
僕は名刺と本人とを見ながら、
「このたびは不思議なご縁で……」
云々の挨拶をした。
僕は黒光りする廊下を、食堂らしき広間へと通された。
そこには、いつの間にこれだけのものを用意したのか、昼食にしては豪華な和食の膳が用意されていて、僕はその席に座らされた。
たまたまの縁で書割の下書きをしただけなのに、この歓待ぶりはさすがに僕も呆気にとられた。
「近江さんは、ビールですか、日本酒ですか?」
向かいに座った熊橋老人はさっそく訊ねたが、僕は「下戸なので」と断った。
「こんなものしか用意できませなんだが……」
さぁ遠慮なく、と熊橋老人はすすめるものの、どうも気が引けて箸をつけかねているうち、すでにビールで顔を赤くした熊橋老人が、
「ところで近江さんは、いつまでこちらにご滞在ですか?」
と、訊ねてきた。
「まあ、そうですねぇ……」
僕は、奉納歌舞伎について取材するチャンスだと思った。
ぜひ奉納歌舞伎を拝見したいと、松羽目の下書きにかこつけて話してみようと思っていると、熊橋老人のほうが、こちらの返事を待たずに先に口を開いた。
「もし今日、お急ぎでなければ、夕方から奉納歌舞伎の稽古があるさかい、どうです、見学しはりませんか?」
続
「ほう、東京のプロの方は、やはり違いますなぁ……」
云々、感極まったような声で、何度も礼を述べた。
「ところで近江さん、お食事はまだでしょう?」
そう訊かれて、僕は初めて、昼食時をとっくに過ぎていることに気が付いた。
僕は作品に集中すると、いつも寝食を忘れる。
僕は熊橋老人の言葉に甘えて、昼のご馳走にあずかることにした。
連れて行かれたのは集会所からすぐの場所にある、軒の低い格子づくりの古びた旅館だった。
おそらく、昔の旅籠から続いているのだろう。
僕は玄関のガラス戸に縦書された金文字を見て、あっ、と思った。
そこには、「下鶴旅館」とあったのだ。
僕は咄嗟に、インターネットに“郷土史家”として記事を載せている、下鶴昌之なる名前を思い出した。
もしかしたら、ここの人なのでは……?
熊橋老人はガラス戸を開けると、「おーい」と勝手知ったるふうに奥へ声をかけながら、土間に立った。
僕もそれにゆっくり続くと、古い家屋独特の濃縮された空気が、鼻をついた。
やがて「はい、はい」と、奥からタオルで手を拭いながら出てきたのは、ふっくらとした丸顔の、いかにも愛想良さげな中年男性だった。
パッと見は若いが、七三に分けた髪の生え際に、白いものが混じっているところに、実年齢が表れていた。
「こちらが、さっき話した東京のプロの画家の、近江さん」
熊橋老人は、玄関で丁寧に正座して迎える中年男性に、やけにプロという点を強調して僕を紹介した。
さきほど集会所でいちど席を外したのは、ここへ来るためだったようだ。
「それはそれは……」
中年男性は、いかにも商売人らしく物腰柔らかに僕を見て、「お話しは先ほど、熊橋さんから伺っております。なんでも、奉納歌舞伎の松羽目を描いていただいたそうで……」
「まあ、下書きだけですが……」
つい頭の後ろに手をやる僕に熊橋老人は、
「こちらはこの旅館の主人で、下鶴さん。今度の奉納歌舞伎では、音頭取(おんどとり)をするんですわ」
と紹介してから、音頭取とは祭礼の実行委員長みたいなもんです、と付け加えた。
「いやぁ、お恥ずかしいかぎりで……」
下鶴氏はそう恐縮してみせると、上着の内ポケットより一枚の名刺を差し出して、
「朝妻歌舞伎実行委員長の、下鶴です」
と挨拶をした。
名刺は今度の祭礼のために作ったらしく、口上の肩書が刷られた真ん中にはやはり、下鶴昌之とあった。
この人が、インターネットの記事の、“郷土史家”か―
僕は名刺と本人とを見ながら、
「このたびは不思議なご縁で……」
云々の挨拶をした。
僕は黒光りする廊下を、食堂らしき広間へと通された。
そこには、いつの間にこれだけのものを用意したのか、昼食にしては豪華な和食の膳が用意されていて、僕はその席に座らされた。
たまたまの縁で書割の下書きをしただけなのに、この歓待ぶりはさすがに僕も呆気にとられた。
「近江さんは、ビールですか、日本酒ですか?」
向かいに座った熊橋老人はさっそく訊ねたが、僕は「下戸なので」と断った。
「こんなものしか用意できませなんだが……」
さぁ遠慮なく、と熊橋老人はすすめるものの、どうも気が引けて箸をつけかねているうち、すでにビールで顔を赤くした熊橋老人が、
「ところで近江さんは、いつまでこちらにご滞在ですか?」
と、訊ねてきた。
「まあ、そうですねぇ……」
僕は、奉納歌舞伎について取材するチャンスだと思った。
ぜひ奉納歌舞伎を拝見したいと、松羽目の下書きにかこつけて話してみようと思っていると、熊橋老人のほうが、こちらの返事を待たずに先に口を開いた。
「もし今日、お急ぎでなければ、夕方から奉納歌舞伎の稽古があるさかい、どうです、見学しはりませんか?」
続