
ラジオで、寶生流「遊行柳」の再放送を聴く。
室町末期と云ふ權力者が事實上衰退し、實力者が割拠した騒乱期を、觀世太夫の補佐役として巧みに乗り越えた觀世小次郎信光の、人生をやりきった人ならではの晩年觀──老ひてなお先祖世阿彌の夢幻能に挑戰する“生涯現役”な人生──が窺へる、さびさびとした調子の意欲曲。
私はこの曲は素謠で聴くばかりで、舞臺で觀たことはない。
演能時間が二時間に迫ると云ふかうしたゆっくりな曲は、自身もゆっくりな年代に達した時に樂しめればよいのであって、なにも今のうちから無理に理解した氣にならなくてもよいと考へる。
しかしそのためには、普段からやりたいことは全てやってみせるくらゐの、“悔ひなき心掛け”と云ふものが肝心だらう。
よって私は實踐中、のつもりだ。