帰宅したのは夕方。
まさか僕がこんなに早く帰って来ると思うわけもなく、CDデッキで音楽を聴いていた翔は、
「あれ、バイトは?」
と目を丸くした。
「ああ。今日は仕事少ないからって、早上がりにさせられた」
と言いながら、つい翔を感慨深く見てしまった。
“かげ”
“ひなた”…
「え、なに?」
翔は顔に何か付いているのかと、頬に手をあてた。
「いや、ごめん。違うんだ。今日バイト先の近くで、翔に顔のよく似た人を見掛けてさ」
「ああ…。大丈夫、確かにそれは俺じゃないよ。俺は朝からここで、大人しくしてたから。アリバイはないけど」
「となるとアヤシイな」
と笑って、「そのCD、どうしたの。持って来たやつ?」
と、ハードロックが流れているデッキを指差した。
「違う違う。俺が寝てる部屋にあったんだよ。サンプルだろ、これ」
翔はデッキからCDを取り出して、レーベルを見せた。
“μ”
「ああ、それ…。いつだったか萬世橋駅の広場で貰ったんだよ」
「なんだ、そゆこと。道理で章彦がこういう系の音楽聴くなんて、珍しいと思ったんだ」
「いや、それ一度も聴いてない」
「だろな」
翔はCDをもう一度デッキにセットすると、再生ボタンを押した。
「サンプルだから、サビのところが三曲入っているだけなんだけどさ、アマチュアのわりにけっこうハイレベルな楽曲歌ってんだよ…。もちろん知らないバンドだけど」
「インディーズ」
「おっ…」
親友は二度、目を丸くした。
そして、いきなり爆笑。
「え、なに?なに?僕なんか、違うこと言った…?」
「いやいや。ははは…。ゴメン。まさか章彦の口から“インディーズ”なんて言葉が出て来ると思ってなかったから。いや~、ビックリシャックリ」
「シャックリって…、バカにしてるねぇ。それくらいは知ってるよ」
「お、言ったね。なんか音楽関係の知り合いでも出来たの?このCDと云い…」
「それはホントに駅前で貰ったやつなんだけどさ。前のバイトで、昔バンド組んでたって云う人がいて、その人からちょこっとだけ、話しを聞いたんだよ」
その人は、“HARUYA”という、翔とも縁のある人でね。
翔と顔の雰囲気も似ていてね。
ロックのヴォーカルとしては、才能がかなりあるみたいだけど、彼いわく「運を使い果たした」とかで…。
「そういえば翔、声が朝よりも治ったんじゃないか?」
「気が付くの遅すぎ」
「すごい回復力だな」
「昼間、マネージャーから仕事が一つ決まった、って電話があってさ。そしたら一気に…」
「そうか。やっぱり、“病いは気から”だね。とりあえず、仕事決まって、おめでとう」
「へへ、ありがとう。あるアニメのアフレコでね。別に体を動かすわけじゃないから、捻挫していても大丈夫だろう、って。明日から知り合いのボイストレーナーのところ行って、早く喉の感覚を取り戻してくるよ」
「じゃあ、今日はこれからどうする?」
「お願い!」
翔は顔の前でパンと両手を合わせて、「今晩までいさせて下さい!」
「どうぞ。じゃ晩飯は…」
「俺が奢ります」
「おっ、ごちそうさま」
日が暮れてから、翔の復活祝いということで、寿司屋へと出掛けた。
今度の声優の仕事は、以前からマネージャーがぜひ宮嶋翔で、と制作会社に強く推し続けてくれていた賜物なんだ、といつもの生き生きとした調子で話す親友の姿に、
山内晴哉…かつての“HARUYA”の姿がだんだんとオーバーラップして、
そうしたらたまらなく切ないものが込み上げてきて、
僕はこの時の寿司の味を、
全く覚えていない。
俺さきに寝るね、と翔が部屋へ入ってから、僕はパソコンを立ち上げて今朝見つけたサイトを改めて開いた。
それは、インディーズバンドに関してのカキコミサイトで、どうでもいいような下らないウワサ話しなどがダラダラと綴られているなか、僕が気になったのは、“cinnamon”なる人物のカキコミだった。
例の複合商業ビルのコーヒーショップで、
『…二年前に突如消滅したRUSHADEのボーカルだったHARUYAにそっくりなのが、ウェイターやっているのを発見!向こうも気付いたみたいで、絶対に目を合わせようとにしないのには吹いたわ』
文中の“吹いた”が、引っ掛かるのだ。
会話でもメールでも、「思わず笑った」、と云う時に口癖でこの表現を用いる人物を、僕は一人だけ知っている。
そしてその人物は、あろうことか投稿ネームと同じ綴りを、ケータイアドレスにも用いている…。
投稿日時は、まさに僕が“cinnamon”と思しき人物と会った日。
あの時、妙によそよそしかった山内晴哉の態度。
それは、僕の後ろでおそらくアレ?といった顔をしていたと思われる人物に対してのものだったとしたら?
山内晴哉が店の名刺の裏に走り書きした、
“その女はあんたのこと見ていない”
これは山内晴哉の方をばかり気にして、近江章彦のことなんて眼中にないよ、とも取れるけれど、名刺を渡した時の瞳(め)のことを考えると、真意はもっと深いところにあったのでは…。
「大学生です」とだけ身分を話した、あの女性…。
初めて会ったのは、去年の秋の市民芸術祭の時。
あの時の出来事と云えば、それくらいのもの…。
いや。
なに言ってんだオマエは。
あの時は会期初日に、翔が忙しい合間を縫って見に来てくれたじゃないか!
それで、そのことを自身の公式ブログにもUPしてくれて…。
ああ…。
公式ブログ、か…。
〈続〉
まさか僕がこんなに早く帰って来ると思うわけもなく、CDデッキで音楽を聴いていた翔は、
「あれ、バイトは?」
と目を丸くした。
「ああ。今日は仕事少ないからって、早上がりにさせられた」
と言いながら、つい翔を感慨深く見てしまった。
“かげ”
“ひなた”…
「え、なに?」
翔は顔に何か付いているのかと、頬に手をあてた。
「いや、ごめん。違うんだ。今日バイト先の近くで、翔に顔のよく似た人を見掛けてさ」
「ああ…。大丈夫、確かにそれは俺じゃないよ。俺は朝からここで、大人しくしてたから。アリバイはないけど」
「となるとアヤシイな」
と笑って、「そのCD、どうしたの。持って来たやつ?」
と、ハードロックが流れているデッキを指差した。
「違う違う。俺が寝てる部屋にあったんだよ。サンプルだろ、これ」
翔はデッキからCDを取り出して、レーベルを見せた。
“μ”
「ああ、それ…。いつだったか萬世橋駅の広場で貰ったんだよ」
「なんだ、そゆこと。道理で章彦がこういう系の音楽聴くなんて、珍しいと思ったんだ」
「いや、それ一度も聴いてない」
「だろな」
翔はCDをもう一度デッキにセットすると、再生ボタンを押した。
「サンプルだから、サビのところが三曲入っているだけなんだけどさ、アマチュアのわりにけっこうハイレベルな楽曲歌ってんだよ…。もちろん知らないバンドだけど」
「インディーズ」
「おっ…」
親友は二度、目を丸くした。
そして、いきなり爆笑。
「え、なに?なに?僕なんか、違うこと言った…?」
「いやいや。ははは…。ゴメン。まさか章彦の口から“インディーズ”なんて言葉が出て来ると思ってなかったから。いや~、ビックリシャックリ」
「シャックリって…、バカにしてるねぇ。それくらいは知ってるよ」
「お、言ったね。なんか音楽関係の知り合いでも出来たの?このCDと云い…」
「それはホントに駅前で貰ったやつなんだけどさ。前のバイトで、昔バンド組んでたって云う人がいて、その人からちょこっとだけ、話しを聞いたんだよ」
その人は、“HARUYA”という、翔とも縁のある人でね。
翔と顔の雰囲気も似ていてね。
ロックのヴォーカルとしては、才能がかなりあるみたいだけど、彼いわく「運を使い果たした」とかで…。
「そういえば翔、声が朝よりも治ったんじゃないか?」
「気が付くの遅すぎ」
「すごい回復力だな」
「昼間、マネージャーから仕事が一つ決まった、って電話があってさ。そしたら一気に…」
「そうか。やっぱり、“病いは気から”だね。とりあえず、仕事決まって、おめでとう」
「へへ、ありがとう。あるアニメのアフレコでね。別に体を動かすわけじゃないから、捻挫していても大丈夫だろう、って。明日から知り合いのボイストレーナーのところ行って、早く喉の感覚を取り戻してくるよ」
「じゃあ、今日はこれからどうする?」
「お願い!」
翔は顔の前でパンと両手を合わせて、「今晩までいさせて下さい!」
「どうぞ。じゃ晩飯は…」
「俺が奢ります」
「おっ、ごちそうさま」
日が暮れてから、翔の復活祝いということで、寿司屋へと出掛けた。
今度の声優の仕事は、以前からマネージャーがぜひ宮嶋翔で、と制作会社に強く推し続けてくれていた賜物なんだ、といつもの生き生きとした調子で話す親友の姿に、
山内晴哉…かつての“HARUYA”の姿がだんだんとオーバーラップして、
そうしたらたまらなく切ないものが込み上げてきて、
僕はこの時の寿司の味を、
全く覚えていない。
俺さきに寝るね、と翔が部屋へ入ってから、僕はパソコンを立ち上げて今朝見つけたサイトを改めて開いた。
それは、インディーズバンドに関してのカキコミサイトで、どうでもいいような下らないウワサ話しなどがダラダラと綴られているなか、僕が気になったのは、“cinnamon”なる人物のカキコミだった。
例の複合商業ビルのコーヒーショップで、
『…二年前に突如消滅したRUSHADEのボーカルだったHARUYAにそっくりなのが、ウェイターやっているのを発見!向こうも気付いたみたいで、絶対に目を合わせようとにしないのには吹いたわ』
文中の“吹いた”が、引っ掛かるのだ。
会話でもメールでも、「思わず笑った」、と云う時に口癖でこの表現を用いる人物を、僕は一人だけ知っている。
そしてその人物は、あろうことか投稿ネームと同じ綴りを、ケータイアドレスにも用いている…。
投稿日時は、まさに僕が“cinnamon”と思しき人物と会った日。
あの時、妙によそよそしかった山内晴哉の態度。
それは、僕の後ろでおそらくアレ?といった顔をしていたと思われる人物に対してのものだったとしたら?
山内晴哉が店の名刺の裏に走り書きした、
“その女はあんたのこと見ていない”
これは山内晴哉の方をばかり気にして、近江章彦のことなんて眼中にないよ、とも取れるけれど、名刺を渡した時の瞳(め)のことを考えると、真意はもっと深いところにあったのでは…。
「大学生です」とだけ身分を話した、あの女性…。
初めて会ったのは、去年の秋の市民芸術祭の時。
あの時の出来事と云えば、それくらいのもの…。
いや。
なに言ってんだオマエは。
あの時は会期初日に、翔が忙しい合間を縫って見に来てくれたじゃないか!
それで、そのことを自身の公式ブログにもUPしてくれて…。
ああ…。
公式ブログ、か…。
〈続〉