迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

傅説の正体を掘る。

2022-02-22 19:50:00 | 浮世見聞記
今日は2022年2月22日と“2”が續く、ただそれだけの日。

次は200年後だが、その頃もまだニンゲンは存在してゐるのだらうか?

明日のことも分からぬのだから、そんな遠い未来など、何をか言はんや。


しかし、200年以上の過去ならば、その痕跡からある程度を偲ぶことは可能だ。



そこで、大田区立郷土博物館の企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」を觀る。


大正二年(1913年)に仙臺に生まれ、関東大震災をきっかけに東京の青山から田園調布へと移住した西岡少年は、父親が現•東芝の營業部長だった影響もあって科学少年に育ち、そのことから學生時代に傅説だらけな古代史に疑問を抱いたことがきっかけとなって、より實際的な考古學の道を志すやうになる。

そして昭和七年(1932年)、十八歳のときに宅地開發が進む地元の田園調布に、古代の遺跡(古墳)が多く眠ってゐることを我が目で發見する──


さうした西岡秀雄氏の考古學への情熱は、多摩川沿ひに「多摩川台公園」として整備された古墳群、






(※多摩川台公園遠景)

また上流部の“等々力渓谷に”遺る橫穴式石室、




(※等々力渓谷三号橫穴)

付近の玉川野毛町公園に整備された、



「野毛大塚古墳」などに見ることが出来る。 



分割拂ひ(ローン)でなら高額な買ひ物が出来るくらゐの小金持ちや見榮っ張りでは、到底住人にはなれない明らかに衆庶とは隔絶された邸宅の續く高級住宅地が、



そのはるか以前より上流階級と縁ある土地柄だった事實は、人間の思考の輪廻を見るやうで面白い。



西岡秀雄氏は戰後になると、環境と心境の変化から考古學の第一線を退き、他方面の研究に活路を見出す。

後年に「トイレ博士」との異名をとる如く、誰も考へもしなかった事柄を研究材料とする姿勢は奇異に見られ、そのために學界の主流からは外されていくが、大勢に迎合することを主流と云ふならば、それはタダの御用學者集團とでも呼ぶべきだらう。

展示資料で見る限り、西岡秀雄氏は常に旺盛な好奇心と力強さをもって、自分が研究したいと思った對象に自由に樂しく向き合って仕事をしてゐたやうに思へる。

そのなかで、

“舌出し”とは威嚇と畏敬が相殺されて生まれる愛情表現である──

と云ふ「舌出し民俗」の考察が、今回の企画展で最も参考になった。







コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 癒やしの櫻吹雪。 | トップ | 梅林主上。 »
最新の画像もっと見る