驚いて振り返った僕は、慄然とした。
ついさっきまで寝そべっていたあの浮浪者風の男が、刃物を振り回して暴れていたのだ。
床には、年配の警備員が、血潮のなかに倒れていた。
悲鳴をあげて逃げ惑う客たち。
昼下がりのエントランスは、いっぺんに地獄風景と化した。
男は相変わらず獣のような咆哮をあげながら、今度は目の前にいる女性警備員に襲いかかろうとしていた。
危ない……!
僕はそう叫ぼうにも、あまりの恐怖に舌がひきつって、声にならなかった。
それどころか、足もすくんでいた。
暴漢は刃物を握った手を、腕ごと振り回して女性警備員に突進した。
女性警備員は寸でのところで、体をかわした。
至近距離にもかかわらず、みごとな敏捷さだった。
誰もいない空間に向かって突っ込んでいく暴漢の姿が、なんとも間抜けに見えた。
女性警備員が逃げるなら、この瞬間だった。
しかし、暴漢はそれより僅かに早く振り返ると、刃物を振り回しながら再び突進した。
すっかり逆上した暴漢の眼は、激しく血走っていた。
このタイミングで女性警備員が逃げたら、その背中に暴漢の凶刃が、間違いなく突っ込むだろう。
彼女は、絶体絶命だった。
しかし彼女は、後ずさりしながらみごとな敏捷さで体を逸らして、刃をかわし続けた。
が、そのうちに刃先が制帽のつばに当たり、制帽がパーンと音を立てて宙を飛び、僕の足もとに落ちてきた。
つばが深くザックリと切れているのを見て、僕はゾッとした。
と同時に、心のなかで何かが動いた。
最近の俗世では、よく「スイッチが入る」なんて言い方をする。
この時の僕が、まさにそれだった。
エントランスの柱まで追い詰められた女性警備員は、暴漢の腕を両手で、必死に押さえていた。
彼女の額と暴漢の刃先の間が、だんだんと縮まっていく。
やがて暴漢はわめきながら、女性警備員の腹部に、膝蹴りを食らわせ始めた。
膝が彼女の腹にめり込む鈍い音と、彼女が低く呻く声に、僕は傍らに設置されている消火器を、ほとんど反射的に掴んでいた。
そして安全ピンをひっこ抜き、暴漢に向かって走った。
おい……! と背後から怯えて声をかける人々など気にもせず、僕は左手でホースを、右手でレバーを握りしめた。
こちらに気が付いた暴漢が、顔を振り向けた。
その瞬間、僕はホースの先を相手の顔に突き付けて、力いっぱいレバーを握った。
勢いよく噴き出した消火液が、暴漢の顔面に直撃した。
暴漢は悲鳴をあげて、両手で顔を覆った。
その拍子に、刃物が床に落ちた。
暴漢は、今度は僕に襲いかかろうとした。
が、床にこぼれた消火液に足を滑らせ、ステン! と滑稽なまでに両足を宙に振り上げ、転倒した。
難を逃れた女性警備員は、刃物を素早く遠くへ蹴ると、四つん這いになって起き上がろうとする暴漢の背中に、体ごと乗っかって組伏せた。
しかし、女性の体では無理があった。
暴漢は彼女を、はね飛ばそうとした。
そこで僕はすかさず、暴漢の脳天に、消火器を叩きつけた。
ゴン、という音がして、暴漢は静かになった。
女性警備員は制服の肩に通している組紐を外すと、先端に警笛がついているそれで、暴漢の両手を瞬く間に縛り上げた。
僕と女性警備員は、初めて顔を見合わせて、ふうっと息をついた。
女性警備員は、かなりの若かった。
色白で化粧っ気がなく、美人というより可愛い顔立ちで、黒髪のショートカットがよく似合っていた。
たった今の勇敢さが、とても想像できないような顔立ちだった。
そして僕は、右の目許にポツンとある泣き黒子が、そんな彼女の顔立ちにひとつのアクセントを与えていることに、気がついた。
これが彼女―金澤あかりとの出会いだった。
続
ついさっきまで寝そべっていたあの浮浪者風の男が、刃物を振り回して暴れていたのだ。
床には、年配の警備員が、血潮のなかに倒れていた。
悲鳴をあげて逃げ惑う客たち。
昼下がりのエントランスは、いっぺんに地獄風景と化した。
男は相変わらず獣のような咆哮をあげながら、今度は目の前にいる女性警備員に襲いかかろうとしていた。
危ない……!
僕はそう叫ぼうにも、あまりの恐怖に舌がひきつって、声にならなかった。
それどころか、足もすくんでいた。
暴漢は刃物を握った手を、腕ごと振り回して女性警備員に突進した。
女性警備員は寸でのところで、体をかわした。
至近距離にもかかわらず、みごとな敏捷さだった。
誰もいない空間に向かって突っ込んでいく暴漢の姿が、なんとも間抜けに見えた。
女性警備員が逃げるなら、この瞬間だった。
しかし、暴漢はそれより僅かに早く振り返ると、刃物を振り回しながら再び突進した。
すっかり逆上した暴漢の眼は、激しく血走っていた。
このタイミングで女性警備員が逃げたら、その背中に暴漢の凶刃が、間違いなく突っ込むだろう。
彼女は、絶体絶命だった。
しかし彼女は、後ずさりしながらみごとな敏捷さで体を逸らして、刃をかわし続けた。
が、そのうちに刃先が制帽のつばに当たり、制帽がパーンと音を立てて宙を飛び、僕の足もとに落ちてきた。
つばが深くザックリと切れているのを見て、僕はゾッとした。
と同時に、心のなかで何かが動いた。
最近の俗世では、よく「スイッチが入る」なんて言い方をする。
この時の僕が、まさにそれだった。
エントランスの柱まで追い詰められた女性警備員は、暴漢の腕を両手で、必死に押さえていた。
彼女の額と暴漢の刃先の間が、だんだんと縮まっていく。
やがて暴漢はわめきながら、女性警備員の腹部に、膝蹴りを食らわせ始めた。
膝が彼女の腹にめり込む鈍い音と、彼女が低く呻く声に、僕は傍らに設置されている消火器を、ほとんど反射的に掴んでいた。
そして安全ピンをひっこ抜き、暴漢に向かって走った。
おい……! と背後から怯えて声をかける人々など気にもせず、僕は左手でホースを、右手でレバーを握りしめた。
こちらに気が付いた暴漢が、顔を振り向けた。
その瞬間、僕はホースの先を相手の顔に突き付けて、力いっぱいレバーを握った。
勢いよく噴き出した消火液が、暴漢の顔面に直撃した。
暴漢は悲鳴をあげて、両手で顔を覆った。
その拍子に、刃物が床に落ちた。
暴漢は、今度は僕に襲いかかろうとした。
が、床にこぼれた消火液に足を滑らせ、ステン! と滑稽なまでに両足を宙に振り上げ、転倒した。
難を逃れた女性警備員は、刃物を素早く遠くへ蹴ると、四つん這いになって起き上がろうとする暴漢の背中に、体ごと乗っかって組伏せた。
しかし、女性の体では無理があった。
暴漢は彼女を、はね飛ばそうとした。
そこで僕はすかさず、暴漢の脳天に、消火器を叩きつけた。
ゴン、という音がして、暴漢は静かになった。
女性警備員は制服の肩に通している組紐を外すと、先端に警笛がついているそれで、暴漢の両手を瞬く間に縛り上げた。
僕と女性警備員は、初めて顔を見合わせて、ふうっと息をついた。
女性警備員は、かなりの若かった。
色白で化粧っ気がなく、美人というより可愛い顔立ちで、黒髪のショートカットがよく似合っていた。
たった今の勇敢さが、とても想像できないような顔立ちだった。
そして僕は、右の目許にポツンとある泣き黒子が、そんな彼女の顔立ちにひとつのアクセントを与えていることに、気がついた。
これが彼女―金澤あかりとの出会いだった。
続