
新加納を過ぎ、高田から蔵前という地区にかけては、道が幾度も蛇行して続き、独特の風情があります(上段写真)。
蔵前をすぎ、陣屋のあった切通(きりとおし)から細畑(ほそはた)にかけてはほぼ直線で、沿道のところどころには、いにしえを彷彿とさせる民家がのこされています。
町なかにしては珍しく、両塚ともよく原形をとどめている「細畑(ほそはた)一里塚」を過ぎ、

JR東海道本線のガードをくぐり抜けて名鉄線の踏切を渡ると、鵜沼宿から約3時間、ようやく加納宿へと入ります。
“美濃十六宿”で最大と云われた加納宿は、慶長6年(1601年)3月に奥平信昌が地元有力者たちを指揮して整備したことに始まり、寛永11年(1634年)、中山道の宿場に定められました。
また加納城の城下町でもあったため、中山道で最も鈎の手に曲がる場所の多い宿場でもあります。
現在では、その鈎の手の道筋がかつての面影を伝えているだけの、さびしい雰囲気となっています。

↑写真の右手が本陣のあった場所で、現在の岐阜駅前の延長線上に位置しています。
和宮もここで宿泊しましたが、それも今は昔、です。
今回は塩尻宿のはずれより“木曾路”を経て、“美濃路”を加納宿―現在の岐阜駅前まで探訪してみました。
これより先は、またいつか訪ねることに……。
蔵前をすぎ、陣屋のあった切通(きりとおし)から細畑(ほそはた)にかけてはほぼ直線で、沿道のところどころには、いにしえを彷彿とさせる民家がのこされています。
町なかにしては珍しく、両塚ともよく原形をとどめている「細畑(ほそはた)一里塚」を過ぎ、

JR東海道本線のガードをくぐり抜けて名鉄線の踏切を渡ると、鵜沼宿から約3時間、ようやく加納宿へと入ります。
“美濃十六宿”で最大と云われた加納宿は、慶長6年(1601年)3月に奥平信昌が地元有力者たちを指揮して整備したことに始まり、寛永11年(1634年)、中山道の宿場に定められました。
また加納城の城下町でもあったため、中山道で最も鈎の手に曲がる場所の多い宿場でもあります。
現在では、その鈎の手の道筋がかつての面影を伝えているだけの、さびしい雰囲気となっています。

↑写真の右手が本陣のあった場所で、現在の岐阜駅前の延長線上に位置しています。
和宮もここで宿泊しましたが、それも今は昔、です。
今回は塩尻宿のはずれより“木曾路”を経て、“美濃路”を加納宿―現在の岐阜駅前まで探訪してみました。
これより先は、またいつか訪ねることに……。