国立能楽堂で、金春流の「邯鄲」を観る。
五十年の栄華も、現実には粟飯が炊き上がるまでの、わずかな間の夢。
心理学者の宮城音弥氏が、人の夢を見る速度は現実の時間進行にくらべて速いということを、著者「夢」(岩波新書)のなかで述べていたのを思い出した。
今は昔、私もシテの盧生のように、
“自分とはなにか?”
“そしていかに生きるべきか?”-
といったことを本気で考え、悩んでいた時期がある。
どうやら人は若い時、そんなことを考えたがるものらしい。
だがそういうものは、人生の経験と年輪を重ねていくうちにだんだんと答えらしきが見えてくるもので、なにもかもが浅い若僧に悟れるものではない。
「“生きる”とはなにか?」-
それは、
「日々なにかに追われているということ」
さ。
五十年の栄華も、現実には粟飯が炊き上がるまでの、わずかな間の夢。
心理学者の宮城音弥氏が、人の夢を見る速度は現実の時間進行にくらべて速いということを、著者「夢」(岩波新書)のなかで述べていたのを思い出した。
今は昔、私もシテの盧生のように、
“自分とはなにか?”
“そしていかに生きるべきか?”-
といったことを本気で考え、悩んでいた時期がある。
どうやら人は若い時、そんなことを考えたがるものらしい。
だがそういうものは、人生の経験と年輪を重ねていくうちにだんだんと答えらしきが見えてくるもので、なにもかもが浅い若僧に悟れるものではない。
「“生きる”とはなにか?」-
それは、
「日々なにかに追われているということ」
さ。