「母の日」はいつから日本の社会に定着し始めてきたのだのだ
ろうかー。僕には記憶がない。明治26年生れの母親は昭和5
1年、83歳で世を去った。生前、僕は「母の日」に贈物をしたこ
とはなかった。
米国ウェストバージニア州の教師が亡き母親の追悼に白いカー
ネーションを母の勤めていた教会学校へ贈ったのが、そもそも
「母の日」のいわれだという。1907年というから今年で百年。
1914年から米国では5月の第2日曜日が国の祭日となって
いる。母親の日頃の苦労をねぎらい、感謝を捧げるのが目的
だといわれる。
僕は戦後、外国から入ってきた風習はあまり好きではない。”バ
ター臭い”し、”商売の臭い”が強すぎるからだ。だが「母の日」だ
けはよい。年に一回、母親を想い出し、母親に感謝するのは日
本人の気持ちにもマッチしている。
日本では明治、大正生れの母親は一番苦労された世代である。
戦争中「愛国の母」として愛する息子や夫を戦場に送られ、その
まま奪われた方もいる。「岸壁の母」と歌われ、息子の戦場から
の帰還を港で待ち続けた母親もあった。
僕の母親は幸いそんな経験はなかったが、食糧難による栄養不
足から一人娘を結核で死なせている。当時都会の母親は食糧の
配給が遅れ、田舎への買出しが日課だった。箪笥から自分の着
物を引き出し、お米や卵、野菜などと交換した。僕もモンペをは
いた母親が手製のリュックを担いで買出しから帰宅した姿を、昨
日のように想い出す。お母さん有難う。
ろうかー。僕には記憶がない。明治26年生れの母親は昭和5
1年、83歳で世を去った。生前、僕は「母の日」に贈物をしたこ
とはなかった。
米国ウェストバージニア州の教師が亡き母親の追悼に白いカー
ネーションを母の勤めていた教会学校へ贈ったのが、そもそも
「母の日」のいわれだという。1907年というから今年で百年。
1914年から米国では5月の第2日曜日が国の祭日となって
いる。母親の日頃の苦労をねぎらい、感謝を捧げるのが目的
だといわれる。
僕は戦後、外国から入ってきた風習はあまり好きではない。”バ
ター臭い”し、”商売の臭い”が強すぎるからだ。だが「母の日」だ
けはよい。年に一回、母親を想い出し、母親に感謝するのは日
本人の気持ちにもマッチしている。
日本では明治、大正生れの母親は一番苦労された世代である。
戦争中「愛国の母」として愛する息子や夫を戦場に送られ、その
まま奪われた方もいる。「岸壁の母」と歌われ、息子の戦場から
の帰還を港で待ち続けた母親もあった。
僕の母親は幸いそんな経験はなかったが、食糧難による栄養不
足から一人娘を結核で死なせている。当時都会の母親は食糧の
配給が遅れ、田舎への買出しが日課だった。箪笥から自分の着
物を引き出し、お米や卵、野菜などと交換した。僕もモンペをは
いた母親が手製のリュックを担いで買出しから帰宅した姿を、昨
日のように想い出す。お母さん有難う。